とある飛空士への夜想曲 感想



 9月17日発売「とある飛空士への夜想曲(下)」を読了。





 これで「追憶」「恋歌」につづく飛空士シリーズ3部作が完結したので、概括的な感想を記しておきたい。


 人気シリーズの嚆矢となった「追憶」は、ベスタドである狩乃シャルルと次期レヴァーム皇妃である超絶美少女ファナ・デル・モラルの切ない身分違いの恋を描いた空戦モノの冒険活劇である。


 その人気に応える形で発表された「恋歌」は、元バレステロス皇国第一皇子カール・ライールと風呼びの美少女クレア・クルスの数奇な運命と恋とを描いた空戦モノの成長譚である。


 本作「夜想曲」は、「追憶」の舞台となったレヴァーム皇国に敵対する帝政天ツ上を舞台とする。下層市民千々石武夫とベスタドの吉岡ユキが、それぞれ空軍エースパイロットと歌姫となる夢を叶えたが、空飛ぶ凶器と化した自分はもはやユキを愛する資格はないと、千々石はユキを拒絶する。海猫とのリターンマッチを自らの生き甲斐に空を飛び続ける千々石だったが、ますます厳しくなる戦局下で自らの命をかけた決戦前夜、ついにユキを受け入れる。念願の海猫との壮絶な一騎打ちの末に千々石がたどり着いた境地、決断は...という話。


 作者の犬村小六氏は、もともとゲームクリエイターだったらしく、いずれの作品も視覚に訴えかける優れたエンターテインメント小説であるが、作品としての深みは、シリーズを追うごとに深くなっていっている。


 「夜想曲」は、太平洋戦争の日本をモデルに、「大空のサムライ」と呼ばれた坂井三郎の戦闘哲学と「紅の豚」のポルコ・ロッソを思わせるハードボイルドなキャラクターを持ち合わせた千々石の内面描写が秀逸だ。「追憶」は「天空の城ラピュタ」が意識されているが、ユキのジャズシンガーという設定といい、「夜想曲」には「紅の豚」が意識されていることは間違いないだろう。


 犬村氏の作品が改めて気づかせてくれるのは、設定とストーリーはいくら単純でベタでもよく、それをどうやってふさわしい味付けにしていくかが商業作品には大切であるという事実である。


この点確かに、「夜想曲」では、ヒロインであるユキは、後半ほとんど出てこない。ユキのキャラクターも労働者階級の明け透けな少女であり、ライトノベルで好かれるテンプレートとは異なる。日本軍の敗退の軌跡を丁寧になぞる、本格派戦争小説であることもライトノベルというジャンルからすると異色だ。そのような異色さを持ちつつも、なお、人物の描き方やプロットの流し方ではライトノベル的な道を外しておらず、この組み合わせの妙も本作品の魅力の一つだろう。


 作者である犬村氏は、震災直後、twitterで、「自分はこの震災を前に気の利いたつぶやきをするを得ない。できることは小説を書くこと、希望の物語を書くことだ。」という趣旨のつぶやきを発した。「夜想曲」の下巻で語られる戦争の意味に関する波佐見らの独白、なかんずく世代をまたいだ承継観は、今般の震災を経て犬村氏がたどり着いた境地であったのだろう。犬村氏は、もともと最後に余韻というか読者の想像の幅を残す終わり方をする作風を好んできた。今回の「夜想曲」も、千々石がバルドーに突っ込むシーンで終えてもよかったかもしれない。そこをあえて、波佐見の操縦でユキを墜落地まで向かわせ、例のレヴァームの歌を歌わせたのは、もちろんそのほうが収まりが良いということもあろうが、犬村氏が震災を経てどうしても語りたかったことを語らせるためにこのパートが必要だったからだろうと解したい。


 いずれにしても、「夜想曲」はシリーズの中で最も良い作品であった。10月1日からいよいよ劇場版「追憶」が公開されるが、「夜想曲」も作品それ自体の実力としてはもっと広くの人に読まれて良い作品である。いわゆるライトノベル層にはうまくはまらないかもしれないが、「追憶」と同様、じわじわとでも良いので読者層が広がり、他メディアでの展開がなされるよう、応援していきたい。