さくら荘のペットな彼女 6巻 感想



アスキー・メディアワークスより12月10日発売「さくら荘のペットな彼女(6)」を読了。





さくら荘の取り壊しと美咲・仁の卒業をめぐるエピソードに、七海と空太の挫折を通じた急接近とを織りまぜて、泣きを取りに来る巻でした。


オンボロの寮を舞台にする時点で取り壊し話が出てくることは明らかでしたので、それはいいのですが、そろそろ本作もネタが尽きてきた頃なので、この辺で仁と美咲を寮から追い出して新入生をさくら荘に入れないと新しいエピソードが出てこないということなのでしょう。そこでまた空太がフラグを立ててもう一騒動おこる、と。もう読むのを辞めてしまった「迷い猫オーバーラン!」にも見られた、よくある展開が今後も続いていくと見られます。


このように本作品は、プロットといい設定といいベタであるものの、夢に向かって突き進む高校生の挫折と葛藤といったところを正面から書こうという気概が感じられる点が好印象で、そのあたりが、テンポの良い会話の掛け合いとあいまって、読者をひきつけている要因だと思われます。


そういった心の葛藤を描く点が本作品の特徴であればこそ、空太が立てたフラグも、その辺のノベルゲームのようなご都合主義ではなく、正面からの回収に向けて書ききって欲しいところです。誰がそんな修羅場を見たいのか、という商業的なサイドからの疑問も出てくるでしょうけれども、本作品で取ったスタンスを尻すぼみに終わらせないためには、読者におもねずに、ましろと七海の空太をめぐる修羅場をちゃんと書ききる必要があります。これは、境遇と才能の面で「持てる者」であるましろと、「持たざる者」である七海と空太、こうようなアンバランスな構造の中で、勝ち組であるましろを更に勝たせるという予定調和的な結末を、どうやって納得性を持って書ききるか、ということです。七海に声優となる夢を叶える道筋をつけてやって、誰も完全な敗者にならないようなしつらえとする、というのが、通常のこの手の商業作品の常套手段ですが、これを打ち破るような結末が見てみたいですね。


なお、公式HPによると、本作品はドラマCDコースに入ったとのこと、コミックスの発売など、他メディア展開の布石を着々と打っているという状態と見られます。最終的にどこまでの展開が可能かについて、管理人はそれほど楽観視していませんが、つまらない作品ではないので、あと2巻ほど出たところで次のメディア展開の芽が出てくるかもしれません。



けいおん!に見るクリティカルマスの超え方



12月2日に公開された映画「けいおん!」を観てきた。




けいおん!人気について



けいおん!はもちろんテレビ放映の1期から見ており、これは来るな、と思ったところあれよあれよという間にメジャー化してしまった。音楽コンテンツ冬の時代にオリコントップをとるところまではいいとしても、その後2期を経て一般女子中高生にまでその人気が拡大しているというというところまで駆け上がったことには正直驚いた。


その結果、TBSのアニメ事業は2011年、連結ベースでの過去最高益を叩き出すにいたり、けいおん!は同社のアニメコンテンツの大黒柱を支えるまでに成長した。実際、けいおん!は既にTBSの適時開示書類の「映像・文化事業セグメント」における言及に欠かせないコンテンツとなっており、今期TBSが期待していたISが予想以上に伸び悩んでいる中で、TBSの同セグメントにおける映画けいおん!にかける期待は生半可なものではないと推測される。


2011年有価証券報告書
(事業等の状況より)
アニメでは、「けいおん!!」が引き続き好調で、それに続く「アマガミSS」「夢喰いメリー」「インフィニット・ストラトス」などの作品もヒットし、アニメ事業は、過去最高益を記録しました。


(対処すべき課題より)
連結会計年度において過去最高益を達成したアニメ事業についても、「けいおん!!」に続いて「インフィニット・ストラトス」などの作品がヒットしていることから、「アニメのTBS」のブランド確立に向けてまい進してまいります。


けいおん!が売れたポイント



改めて言及するまでもないことであるが、けいおん!は女子高生のゆるい日常を描いたコンテンツである。なぜ、「女子高生のゆるい日常」を描いただけのコンテンツが爆発的にヒットしたのか。ここが一般の人に極めてわかりにくいポイントである。

ストーリーから入ると間違える



この作品を、ストーリーの側面から捉えて評価・批評を加えようとする諸氏がいるが、これはこの作品の本質を根本的に見誤った見当違いのアプローチである。


典型的なのは吾妻ひでおの以下のコメントである。

「録画してあったTBSアニメの『けいおん!』観る。空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も見てる人々も不気味。そんなに現実イヤなのか? この気持ち悪さはメイドカフェにも通じるものがあるな。原作のかきふらいけいおん1』読んでみたらまァまァのほほえましいほのぼの4コマ漫画だ。原作生かせよ!」



この作品はもともとストーリーなどあってないようなものであることは明らかであり、そんなところで勝負している作品ではない。ないものに対して「無い」ことを批判することに意味が無いのは、例えば「ジョジョの奇妙な冒険」に対して「この作品には萌えがない」と批判しているのと質において同じである。


なお、こうした作品を「日常系」というジャンルで括ろうとする試みもまた、上記の吾妻ひでおと同種の過ちを犯していることに気づくべきである。けいおん!は日常を描いたのではなく、起承転結を旨とする一般的なストーリーに価値を置いていない作品であるというだけであるに過ぎない。

ラノベやノベルゲームに通じるキャラクターセントリックな作品



ではこの作品のウリでありかつ生命線であるのは何かというと、それは一も二もなくキャラクターである。舞台設定、キャラクターの作画、配置や性格付けをきわめて丁寧に行い、視聴者があたかも本物の(正確には妄想下で愛情の対象となる程度の現実感を伴った)人物に好感を抱くかのようにキャラクターに愛情を注げる、そこにこの作品の生命線がある。


翻って考えてみると、このようなキャラクターセントリックな作品の作り方は、90年代後半以降のノベルゲーム(いわゆる美少女ゲーム)が自覚的に採用し、近時の作画と文章とが一体化して作品を形成するライトノベルにおいて全年齢に受け入れられることとなった方法論である。文化人類学という分野は好きではないが、彼らの言葉で言うところの記号消費の世界とこのけいおん!という作品は極めて近いところにある。


この点は、映画「けいおん!」の2ちゃんねるにおける感想を読むとよく分かる。2ちゃんねるにおける感想は、以下のようなものである。

「ゆいあずは大勝利だったな!」
「みんな可愛かったな いつも以上に」
「意外とイギリス旅行の描写は短かった」
あずにゃん英語禁止かわいかった」
「良かったー
ただ映画としてはどうなんだろう
元々のファンでないと楽しめないと思う」
「もうあずにゃんが動くだけでね、本当もう最高だよ
数えてないけどライブ沢山あったし映像面じゃかなり力いれてたわwwww」



作品中のキャラクターへの愛情が作品を支えるという構造は、何も新しいものではない。現実的にそのキャラクターへのアクセスができないという意味で、キャラクター萌えの世界はアイドルファンの心理に通ずる。アイドルファンがメディアや、いいところライブかイベントを通じてしかアイドルにアクセス出来ないのと、アニメファンが、実際のアニメや中の声優を通じてしかキャラクターにアクセスできないのとは、相手が現実的に手がとどかないところにあるという点で、質において同じである。


けいおん!人気を支えるコア層は、作品の中で他のキャラクターとのふれあいの中で活動することによって人格を徐々に獲得していくところの、こうした特定のキャラクターへの愛情であることは間違いない。

ポイントはバランス加減と展開のしかけ



キャラクターが萌えるだけの作品であれば、それこそ各期に掃いて捨てるほど製作されている。それらとけいおん!の差異は、ではどこにあるのだろうか。


まず、けいおん!は、各期に大量リリースされるアニメの中の一サブカテゴリーを占めるところの、いわゆるパンツアニメではない。すなわち、そうした性的表現で視聴者を獲得する手法を採用していない。キャラクターに萌えさせながら、キャラクターのクリーンさ、作品の清潔さを保つこと、これが女子の視聴者を獲得するための必要条件となる。この段階で、各期の萌えアニメのほとんどはヒットの条件から脱落するだろう。


逆に、ここを超えられれば、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」や「花咲くいろは」程度までは行ける可能性が高いといえるだろう。


これらの作品を凌駕してけいおん!がヒットできたのは、おそらくその仕掛け方にあったのだろう。


いつもいうように、管理人は稼げるコンテンツが良い商業コンテンツであると考えている。ビジネスでアニメを作っている以上、当然のことである。その意味でも、上記の吾妻某の言はまったくナンセンスである。ビジネスのために作品を作っている以上、ストーリーがなかろうが何であろうが、顧客を満足させ、喜んでブルーレイを買いグッズを買う顧客がおり、しっかり稼げている作品に誰が文句を言う筋合いがあるだろうか。


けいおん!が作品を通じてしっかり売上を上げられたその構造は、これまでの深夜アニメの構造というよりはむしろ、子供向けアニメのそれに通じるところがあると思う。例えば今期放映されている女児向けアニメ「スイートプリキュア」は、当初から玩具で稼ぐことを前提に作品を製作している。同様に、けいおん!も、設定において既に音楽というコンセプトがあり、楽曲や周辺グッズで売りやすい状況が整っていたといえるだろう。


(注)なお、音楽を取り上げればそれでよいというわけではないことに注意したい。下手でも許される設定のもと音楽をネタにするというところが重要である。例えば、杉井光氏の「さよならピアノソナタ」というライトノベル作品は、音楽をテーマにしたキャラクター小説であり、ストーリーとしてもなかなかに面白い作品であるが、ヒロインの蛯沢真冬はピアノとギターの超絶技巧の持ち主であるという設定であり、ここがキャラクターの萌えポイントの多くを占めることから、下手にアニメ化すると失敗する可能性が極めて高い。


ポストけいおん!でTBSが考えるべきこと



TBSは、ハルヒらき☆すたClannadけいおん!と、このキャラ萌えカテゴリーで比較的コンスタントにヒットを獲得することに成功しており、次の一手が待たれる。ポイントは原作の面白さではなく、キャラ萌えのしやすい原画と設定、それにヒットした場合に周辺ビジネスがやりやすい設定となっているかどうかが勝負である。金の卵となりうる作品はメジャーどころではないところにもゴロゴロと転がっている。こういうところからうまく引っ張って、けいおん!と同程度のビジネスに仕立て上げることができるかが、有価証券報告書の「対処すべき課題」に掲げられる「アニメのTBS」ブランドを築けるかどうかの試金石となるだろう。



とある飛空士への夜想曲 感想



 9月17日発売「とある飛空士への夜想曲(下)」を読了。





 これで「追憶」「恋歌」につづく飛空士シリーズ3部作が完結したので、概括的な感想を記しておきたい。


 人気シリーズの嚆矢となった「追憶」は、ベスタドである狩乃シャルルと次期レヴァーム皇妃である超絶美少女ファナ・デル・モラルの切ない身分違いの恋を描いた空戦モノの冒険活劇である。


 その人気に応える形で発表された「恋歌」は、元バレステロス皇国第一皇子カール・ライールと風呼びの美少女クレア・クルスの数奇な運命と恋とを描いた空戦モノの成長譚である。


 本作「夜想曲」は、「追憶」の舞台となったレヴァーム皇国に敵対する帝政天ツ上を舞台とする。下層市民千々石武夫とベスタドの吉岡ユキが、それぞれ空軍エースパイロットと歌姫となる夢を叶えたが、空飛ぶ凶器と化した自分はもはやユキを愛する資格はないと、千々石はユキを拒絶する。海猫とのリターンマッチを自らの生き甲斐に空を飛び続ける千々石だったが、ますます厳しくなる戦局下で自らの命をかけた決戦前夜、ついにユキを受け入れる。念願の海猫との壮絶な一騎打ちの末に千々石がたどり着いた境地、決断は...という話。


 作者の犬村小六氏は、もともとゲームクリエイターだったらしく、いずれの作品も視覚に訴えかける優れたエンターテインメント小説であるが、作品としての深みは、シリーズを追うごとに深くなっていっている。


 「夜想曲」は、太平洋戦争の日本をモデルに、「大空のサムライ」と呼ばれた坂井三郎の戦闘哲学と「紅の豚」のポルコ・ロッソを思わせるハードボイルドなキャラクターを持ち合わせた千々石の内面描写が秀逸だ。「追憶」は「天空の城ラピュタ」が意識されているが、ユキのジャズシンガーという設定といい、「夜想曲」には「紅の豚」が意識されていることは間違いないだろう。


 犬村氏の作品が改めて気づかせてくれるのは、設定とストーリーはいくら単純でベタでもよく、それをどうやってふさわしい味付けにしていくかが商業作品には大切であるという事実である。


この点確かに、「夜想曲」では、ヒロインであるユキは、後半ほとんど出てこない。ユキのキャラクターも労働者階級の明け透けな少女であり、ライトノベルで好かれるテンプレートとは異なる。日本軍の敗退の軌跡を丁寧になぞる、本格派戦争小説であることもライトノベルというジャンルからすると異色だ。そのような異色さを持ちつつも、なお、人物の描き方やプロットの流し方ではライトノベル的な道を外しておらず、この組み合わせの妙も本作品の魅力の一つだろう。


 作者である犬村氏は、震災直後、twitterで、「自分はこの震災を前に気の利いたつぶやきをするを得ない。できることは小説を書くこと、希望の物語を書くことだ。」という趣旨のつぶやきを発した。「夜想曲」の下巻で語られる戦争の意味に関する波佐見らの独白、なかんずく世代をまたいだ承継観は、今般の震災を経て犬村氏がたどり着いた境地であったのだろう。犬村氏は、もともと最後に余韻というか読者の想像の幅を残す終わり方をする作風を好んできた。今回の「夜想曲」も、千々石がバルドーに突っ込むシーンで終えてもよかったかもしれない。そこをあえて、波佐見の操縦でユキを墜落地まで向かわせ、例のレヴァームの歌を歌わせたのは、もちろんそのほうが収まりが良いということもあろうが、犬村氏が震災を経てどうしても語りたかったことを語らせるためにこのパートが必要だったからだろうと解したい。


 いずれにしても、「夜想曲」はシリーズの中で最も良い作品であった。10月1日からいよいよ劇場版「追憶」が公開されるが、「夜想曲」も作品それ自体の実力としてはもっと広くの人に読まれて良い作品である。いわゆるライトノベル層にはうまくはまらないかもしれないが、「追憶」と同様、じわじわとでも良いので読者層が広がり、他メディアでの展開がなされるよう、応援していきたい。


「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その3



(「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その1 はこちら)
(「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その2 はこちら)

ライトノベルにおけるキャラクターデザイン変更の意味



ライトノベルというジャンルは、2000年代以降、曲がりなりにも小説の一ジャンルとして市民権を得て、少なくともアニメ市場に対する原作の重要な供給限として、日本のコンテンツ業界において一定の地位を占めるに至っている。近時発売されている日本のいわゆる一般の文学小説が、作家と読者双方の質の低下もあいまって、むしろライトノベル化しつつある中、そうした一般文学とライトノベルとの間の垣根の相対化を認めつつもなお両者の間の区別を求めるとすると、その差は「キャラ萌え」の有無にあると管理人は考えている。一般文学はキャラ萌えがなくても成立するが、今次のライトノベルはキャラ萌え要素なしには成立し得ない。


 ノベルゲームと同様、小説にキャラ萌えが発生するための要素は2つある。萌えるに値するキャラクターのシナリオ(原作)とこれによく合致する原画(イラスト)である。萌えが発生するために、シナリオがキャラクターを上手に動かすことが必要なのは言うまでもないが、そもそもその動く対象としてのキャラクターの姿かたちを決めるのは原画家である。確かに、例えば森鴎外の「舞姫」などは、イラストがなくとも十分にヒロインのエリスに萌えることができるが、こうした作品は稀であり、当代一の小説家をして初めてなし得る所業である。一般のライトノベル作家が自らの文章力でこれが可能と考えるのは、己の力を知らなすぎると管理人は考える。


 ライトノベルにおいては、キャラクターは小説の表紙を飾り、消費者は原作を読む前に原画家が描いたキャラクターに邂逅する。その意味で、ライトノベルにおけるキャラクターデザインは、時として原作の中身以上に重要である。極めて控えめに言っても、キャラクターデザインは原作で表現されるキャラクターと分かち難く結びついていることは間違いない。


 実際、こんなエピソードがある。涼宮ハルヒの憂鬱が大ヒットした際、インタビュアーが谷川流氏にヒットの理由を尋ねたとき、谷川氏が答えて曰く「いとうのいぢさんのキャラクター原画の力が大きいと思います」。涼宮ハルヒの憂鬱は、角川書店が主催する公募新人文学賞であるスニーカー大賞において、1998年以来4年にもわたり出ていなかった大賞を受賞した作品であり、SF作品としても一定の評価を得ている。その意味で、同作品のシナリオ(原作)が秀逸であることは否定し得ない事実であるが、そうした作品の原作者をして、売れる作品となるためにはキャラクターデザインが決定的に重要であると語らしめるほど、ライトノベルという商品の商業的な成功にとって、キャラクターデザインは重要なのである。


 ライトノベルの世界観がシナリオ(原作)とキャラクターデザインの双方が分かちがたく結びついて作られている中で、キャラクターデザインが一変するということは、作品の世界観を一変させるということを意味する。今回のぺこ氏の降板は、単にイラストレーターがぺこ氏から他の人に変更するということを意味するものではなく、ぺこ氏がキャラクターデザインを通じて重要な一翼を担っていた「迷い猫オーバーラン!」の世界観を改変することを意味する。このように考えると、「迷い猫オーバーラン!」におけるぺこ氏の降板は、同作品にとっての危機である。少なくとも、9巻までの「迷い猫」と10巻以降の「迷い猫」は、作品としての連続性を喪失していると言ってよい。

迷い猫の暴走(オーバーラン)の果てに



 
 もちろん、集英社としては、理屈上は、キャラクターデザインのロイヤリティを引き続きぺこ氏に支払い、他の人が同じデザインで挿絵を描くというアレンジを試みることも可能であっただろう。しかしながら、これでは矢吹氏とのアレンジメントと何ら違いがなく、今回この様な形での決着は不可能であったことは想像に難くない。


 こうした経緯を経た上での苦渋の判断としてのぺこ氏の降板であることは理解するが、上述の通り、物語の途中でのキャラクターデザインの変更は、ライトノベルにとっての自殺を意味する。自殺というのが言いすぎであるのであれば、これによって「迷い猫」は半身不随の状態になったと言ってよい。読者は、「迷い猫」10巻を読みながら、いったいどの造形のキャラクターを頭の中で動かせばよいのだろうか。


 9巻までこのシリーズに付き合ってきたファンであれば当然、芹沢文乃とはクロスのついた赤いリボンを左右につけた金髪美少女以外には存在せず、赤髪で猫の髪飾りを付けた少女では断じてない。梅ノ森千世とは腰まで届く長い髪に大きなリボンを一つ頭に付けた可憐な美少女であり、とらドラ!逢坂大河を思わせるウェイビーヘアが顔にまでかかるような少女ではない。


 キャラクターデザインの変更はキャラクターの容姿にとどまらない。迷い猫同好会の面々が着ていたストレイキャッツの制服や、梅ノ森学園の制服にまで及ぶ。原作者はご丁寧に学園の制服の変更を千世に提案させ、普及促進のため迷い猫同好会のメンバーは新学年が始まる前から先行してこの新しい制服を着るのだとしているが、その設定はご都合主義を通り越してもはや興ざめであるという他ない。


 しかも各巻イラストレーター交代制なる体制をとったことにより、これ以降、このライトノベルのキャラクターは各巻ごとに異なるキャラクターデザインが採用されることが見込まれる。このことがライトノベルにとってどれほど愚かなことか、キャラ萌えというライトノベルの本質的要素に照らして考えれば、もはや多くの説明を要しないだろう。
 原作者は、11巻でもまた制服変更をやるつもりなのだろうか。さすがにそこまで愚かではなく、単にこの点を無視して話を進めていくのだろうが、いずれにしてもこの各巻イラストレーター交代制とは、かくも愚かな体制である。



原作者松智洋氏のスタンス



 「迷い猫」原作者である松智洋氏がこの体制をどう思っているか、これもまた知る由も無い。原作者は、アニメーター上がりの人物であり、その経歴が示すとおり原作に対して強い思い入れを抱くタイプの作家ではない。あかほりさとる氏とまでは言わないが、要するにコンテンツないし作り上げた世界観をいかに効率よく利用して最大の収益を上げるかということに関心があるタイプの作家である。


 このサイトの管理人は、これまで繰り返し述べてきたとおり、よい商業コンテンツとは稼げるコンテンツであるという基本スタンスを持っており、上記のような原作者の態度自身を非難したり否定したりするものではない。ぺこ氏の降板によって読者のキャラクターイメージが分散してしまうことは、売上にも大きくマイナスに影響するだろうから、その意味で、今回の降板は原作者にとっても避けたかった事態には違いない。


 けれども、それを超えて各巻イラストレーター交代制まで許容することが正しかったのかというと、管理人はとてもそうとは思えない。イラストレーター交代制は、たしかに一定の話題を呼ぶだろう。けれども、例えば12巻にいとうのいぢ氏が起用されたとして、いとう氏のファンが12巻を買い、さらに1巻から「迷い猫」を読み始める展開が期待できるだろうか。
 結局は、愛読者がキャラクターイメージの分散に違和感を感じ、本作品から離れていくという展開にしかならないのではないかと、管理人は予想する。



迷い、暴走する集英社



 繰り返すが、ライトノベルはキャラクターデザインと原作シナリオが分かち難く結び付いて一つの作品を形成しているという点で、一般の文学小説とは大きく異なる特徴を持つ。
 こうした特性を無視したライトノベルの展開は、それがいかなる形態のものであれ、うまくいくとは思えない。


 いやしくもコンテンツ取扱いのプロである集英社の編集者がこのことに気づいていないはずがない。にもかかわらず敢えて各巻イラストレーター交代制を採用したということは、ぺこ氏の降板による販売部数の減少を織り込んだ上で、これをリカバーする方策として、いわばカンフル剤として毎回人気のあるイラストレーター起用し、これを話題にすることで、絵買いの促進と、露出とマーケティングの足しにしようとしたのではないかと考えたくなる。


 これで本当に読者が踊らされて、販売部数を(増えることはないだろうが)維持することができるとすれば、それは管理人としては驚きである。これだけ面白くないライトノベルが氾濫する時代なので、交代制に踊らされて引き続き本作品を読み続ける読者もいるということであろう。


 こうした中、数多あるライトノベルのなかで本作品を第1巻の発売時から見出し、応援し続けてきた管理人ができることは、今回の一連の措置にあって読者ニーズを正しく踏まえない関係者の対応を本サイトで指弾し、11巻以降を購入しない意思をここに表明することくらいのものである。



「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その2



(「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その1 はこちら

ぺこ氏降板に関する憶測



 なぜぺこ氏が降板と相成ったのか、部外者であるサイト管理人としては知る由もない。よしんば関係者であったとしても、いや関係者であればなおさら、その事情を公にすることなどできないであろう。


 かくして真実は闇に葬り去られることになる可能性が濃厚であるが、矢吹健太朗氏がジャンプスクエアで連載していた「迷い猫オーバーラン!」がほぼ同時期に連載終了となったことと関係していることは想像に難くない。言うまでもなくジャンプスクエアは、ライトノベル版「迷い猫」と同じ集英社が発刊する雑誌であるから、出版社サイドのロイヤリティの取り分が問題となったという話ではないはずである。


 とすると、キャラクターデザインによる権利保有者であるぺこ氏(またはぺこ氏の版権全般を管理するマネジメント会社があればその会社。まあ、ポケモンのようなお化けキャラクターであればともかく、日本でぺこ氏がそこまでしているとはとても考えがたいが。)と、矢吹健太朗氏(またはそのマネジメント会社。以下同じ。)との間のロイヤリティの取り分をめぐり争いが生じたと見るのが合理的である。



なぜ「迷い猫」で問題が発生したのか



しかし、ライトノベルのヒット作を漫画化するというのは、これまでもメディアミックス戦略の名のもとに、各社がとっていた常套策である。なぜ本作品でこれが問題になったのだろうか。


矢吹健太朗氏は、ジャンプ本誌で「ToLoveる!」を連載するなど人気作家であり、なかんずくその美少女に関する画力の高さで当代の漫画家の中でもトップクラスである。しかもその作風はお色気コメディであり、ジャンプスクエアのなかでも少年誌としてはかなり激しい露出を実現することで、特定業界の中では相当な高い人気を誇っている。その矢吹氏が同じ作風で「迷い猫オーバーラン!」を発表し、大盤振る舞いの露出を実現したのだから、これが特定業界で話題にならないわけがない。現に、たとえばこの特定業界の声を反映するメディアの一つである「秋葉原ブログ」では、矢吹氏版「迷い猫」が何度となく話題に取り上げられている。<秋葉原ブログエントリーより>


 「迷い猫オーバーラン!」のメディアミックス戦略は、そのような体制で臨んだ結果、ライトノベルの漫画化としては異例な収益構造が生まれた。1巻あたりベースでライトノベルの販売を漫画が追い抜いてしまったのである。
一説によると、ライトノベルの最新刊であった9巻と漫画の最新刊である2巻の販売数は、直近で以下の数字であったといわれている。

迷い猫オーバーラン!9」 29,045冊

  • 漫画版

迷い猫オーバーラン!2」 191,103冊
まさにケタ違いの売れ方、数値にして7倍弱の販売数である。


 漫画版は原作を比較的忠実にコミカライズしているから、漫画版の売上は、その多くが矢吹氏の画力によるところであると考えられてもおかしくない。実際、原作の漫画版はストーリーを原作で読んだ人が改めて漫画で楽しむために購入されることが多いといわれており、既に原作でストーリーが展開されてしまっている以上、漫画版の購入者はいわゆる「絵買い」が大半を占めると推察される。


 とはいえ、キャラクターデザインを決め、原作にイラストを掲載し、原作をアニメ化までもっていった功労者は矢吹氏でなくぺこ氏である。ぺこ氏から見ると、矢吹氏はその上に乗って二次創作で儲ける輩と見えてもおかしくない。漫画版の売上から一定のロイヤリティが支払われてしかるべきと考えるだろう。


 念のため解説すると、キャラクターデザインをした人が、キャラクターに関する売上から一定額をロイヤリティとして請求することができるかは、パブリシティ権の問題として議論がされることがある。物のパブリシティ権という切り口では、裁判所を含めこれを認めないという見解が優勢だが、著作権法上の複製権ないし翻案権の侵害可能性としてこの問題をとらえれば、キャラクターデザインをした人は、これを利用して経済的利益を得た人に対して一定の金銭的対価を請求することができる場合がある。少なくとも商業版の世界では、実務もそれを前提に動いているものと考えられる。


 なお、出版社は自らの収益確保を最優先してロイヤリティを決めるので、ペこ氏と矢吹氏、原作者の松智洋氏の漫画版からの取り分は3人で1冊あたり◯◯円ということになると考えられる。松智洋氏は原作者として特に利害対立がある存在ではないから(小説版であれ漫画版であれ原作者としてのロイヤリティが入ることになる。)、矢吹氏とぺこ氏の間で、今後矢吹氏が展開する漫画版「迷い猫」が、巻数を重ねるごとに売れ、かつ、漫画版を起点に関連商品や企画が出てきた際に、その収益の取り分をどうするかが問題になった可能性がある。


 この場合、もっとも穏便なのは漫画版の連載を終了させ、ぺこ氏がライトノベルで挿絵を書き続けるという道だったはずである。なぜ、キャラクターデザインを担当したぺこ氏まで連座して降板しなければならなかったのかは、外部から分かりにくいところである。両成敗での手打ちということか、ぺこ氏がモチベーションをなくしたか、真相は不明というほかないが、松智洋氏が奇しくも語っているように、メディアミックスをきっかけとして、ぺこ氏サイドがモチベーションを失い手を引くこととしたということかもしれない。


 いずれにせよ、18禁ノベルゲームの世界で絵買いで作品を買わせる実力者であるぺこ氏が、全年齢対象の作品のキャラクターデザインを手掛け、これを受けて全年齢対象の名うての漫画家である矢吹氏がお色気路線を全面に出した漫画を世に出した結果、絵買いにより原作以上に売上げを出して見せたというのは、皮肉というべきか、不思議な取り合わせであると感じる。2つの異なる業界にまたがる複雑で微妙な決まりごとの中で避けがたく陥穽にはまってしまったということなのかもしれない。


 エンタテインメント、コンテンツ業界のビジネスは、有体物に比べて扱いが難しい商材を幾重にも重ねて利用するものであるから、本来、権利義務関係の確定は事前に慎重に行っておく必要がある。しかしながら、業界慣行の名の下にこのあたりの処理が曖昧なまま案件が進み、思いがけないヒットとなったところで権利者が急に自らの利益を求めて騒ぎ出す、ということが起こりやすい。業界慣行が必ずしも同じではない複数の業界の人材を用いたメディアミックス戦略ともなると、なおさらである。ヒット作を利用した企画で、権利者の調整がつかずせっかくの収益機会を逃したという話は枚挙に暇がなく、今回のような話を耳にするに連れ、なかなか学ばない業界であるなあと感じるとともに、コンテンツできちんと稼ぎたいと本気で思うのであれば、法務費用をもう少しケチらずに使うべきだとも思う。


「迷い猫オーバーラン!」の迷走 その3 につづく



「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その1



8月25日、集英社スーパーダッシュ文庫より「迷い猫オーバーラン!」10巻が発売された。
 同シリーズは2008年10月に第1巻が発売されて以降、イラストレーター・ノベルゲーム原画家ぺこ氏が挿絵を担当してきたが、本巻からこの体制が大きく変更されることとなった。


イラストレーター、ぺこ氏について



 ぺこ氏は、「波の間に間に 〜さざなみ診療所〜」「秋のうららの 〜あかね色商店街〜」、「こなゆきふるり 〜柚子原町カーリング部〜」など、有限会社アルケミーのブランド「ブルームハンドル」の看板絵師と言ってよい絵師である。


ブルームハンドルの作品は、絵が美しいにも関わらずシナリオが残念という特徴を持ち、ノベルゲーム業界でも実に惜しい立ち位置のレーベルの一つである。すなわち、ブルームハンドルの作品は、多くがぺこ氏の「絵買い」によって売れていると見られる。同様の立ち位置のレーベルとしては、いとうのいぢ女史を抱えつつシナリオがぱっとしないため残念な位置にとどまっている、株式会社ソフパルのブランド「ユニゾンシフト」が挙げられるだろう。


 ぺこ氏は、いとうのいぢ氏と同様、ノベルゲーム業界におけるキャラデザを含む原画の世界での実力者であり、同人系のちょっとした挿絵画家とは異なる。本記事を読み進めるにあたっては、ぺこ氏の業界における以上の立ち位置を理解しておいていただく必要がある。



ぺこ氏の降板と各巻イラストレーター交代制への移行



 8月4日、集英社はウェブサイトで、「迷い猫オーバーラン!」からのぺこ氏の降板と、毎巻ごとにイラストレーターが変更する「各巻イラストレーター制」なる体制に移行する旨を公表した。
 そこでは同時に、第10巻の挿絵は「とらドラ!」の挿絵を担当したイラストレーターのヤス氏が、第11巻の挿絵は「ぱにぽに」の作者である漫画家の氷川へきる氏が、それぞれ担当することになることが告知された。


 公式発表によると、各巻イラストレーター制なるものへの移行は、半分が話題づくりのため、半分が大人の事情であるとされている。
 「各巻イラストレーター制への移行」は2つの要素に分けて考えることができる。1つはぺこ氏の降板、もう1つは10巻以降のイラストレーターが毎回変更する、という要素である。単に「イラストレーター変更」として10巻以降のイラストレーターを誰かに交代するという選択肢をとることもできたにもかかわらず、それをしなかった理由は「話題づくりのため」であろうから、もう1つのぺこ氏が降板を余儀なくされた理由が「大人の事情」にあることになる。


「迷い猫オーバーラン!」の迷走 その2」につづく