けいおん!に見るクリティカルマスの超え方



12月2日に公開された映画「けいおん!」を観てきた。




けいおん!人気について



けいおん!はもちろんテレビ放映の1期から見ており、これは来るな、と思ったところあれよあれよという間にメジャー化してしまった。音楽コンテンツ冬の時代にオリコントップをとるところまではいいとしても、その後2期を経て一般女子中高生にまでその人気が拡大しているというというところまで駆け上がったことには正直驚いた。


その結果、TBSのアニメ事業は2011年、連結ベースでの過去最高益を叩き出すにいたり、けいおん!は同社のアニメコンテンツの大黒柱を支えるまでに成長した。実際、けいおん!は既にTBSの適時開示書類の「映像・文化事業セグメント」における言及に欠かせないコンテンツとなっており、今期TBSが期待していたISが予想以上に伸び悩んでいる中で、TBSの同セグメントにおける映画けいおん!にかける期待は生半可なものではないと推測される。


2011年有価証券報告書
(事業等の状況より)
アニメでは、「けいおん!!」が引き続き好調で、それに続く「アマガミSS」「夢喰いメリー」「インフィニット・ストラトス」などの作品もヒットし、アニメ事業は、過去最高益を記録しました。


(対処すべき課題より)
連結会計年度において過去最高益を達成したアニメ事業についても、「けいおん!!」に続いて「インフィニット・ストラトス」などの作品がヒットしていることから、「アニメのTBS」のブランド確立に向けてまい進してまいります。


けいおん!が売れたポイント



改めて言及するまでもないことであるが、けいおん!は女子高生のゆるい日常を描いたコンテンツである。なぜ、「女子高生のゆるい日常」を描いただけのコンテンツが爆発的にヒットしたのか。ここが一般の人に極めてわかりにくいポイントである。

ストーリーから入ると間違える



この作品を、ストーリーの側面から捉えて評価・批評を加えようとする諸氏がいるが、これはこの作品の本質を根本的に見誤った見当違いのアプローチである。


典型的なのは吾妻ひでおの以下のコメントである。

「録画してあったTBSアニメの『けいおん!』観る。空虚だ。ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。このアニメ作ってる人も見てる人々も不気味。そんなに現実イヤなのか? この気持ち悪さはメイドカフェにも通じるものがあるな。原作のかきふらいけいおん1』読んでみたらまァまァのほほえましいほのぼの4コマ漫画だ。原作生かせよ!」



この作品はもともとストーリーなどあってないようなものであることは明らかであり、そんなところで勝負している作品ではない。ないものに対して「無い」ことを批判することに意味が無いのは、例えば「ジョジョの奇妙な冒険」に対して「この作品には萌えがない」と批判しているのと質において同じである。


なお、こうした作品を「日常系」というジャンルで括ろうとする試みもまた、上記の吾妻ひでおと同種の過ちを犯していることに気づくべきである。けいおん!は日常を描いたのではなく、起承転結を旨とする一般的なストーリーに価値を置いていない作品であるというだけであるに過ぎない。

ラノベやノベルゲームに通じるキャラクターセントリックな作品



ではこの作品のウリでありかつ生命線であるのは何かというと、それは一も二もなくキャラクターである。舞台設定、キャラクターの作画、配置や性格付けをきわめて丁寧に行い、視聴者があたかも本物の(正確には妄想下で愛情の対象となる程度の現実感を伴った)人物に好感を抱くかのようにキャラクターに愛情を注げる、そこにこの作品の生命線がある。


翻って考えてみると、このようなキャラクターセントリックな作品の作り方は、90年代後半以降のノベルゲーム(いわゆる美少女ゲーム)が自覚的に採用し、近時の作画と文章とが一体化して作品を形成するライトノベルにおいて全年齢に受け入れられることとなった方法論である。文化人類学という分野は好きではないが、彼らの言葉で言うところの記号消費の世界とこのけいおん!という作品は極めて近いところにある。


この点は、映画「けいおん!」の2ちゃんねるにおける感想を読むとよく分かる。2ちゃんねるにおける感想は、以下のようなものである。

「ゆいあずは大勝利だったな!」
「みんな可愛かったな いつも以上に」
「意外とイギリス旅行の描写は短かった」
あずにゃん英語禁止かわいかった」
「良かったー
ただ映画としてはどうなんだろう
元々のファンでないと楽しめないと思う」
「もうあずにゃんが動くだけでね、本当もう最高だよ
数えてないけどライブ沢山あったし映像面じゃかなり力いれてたわwwww」



作品中のキャラクターへの愛情が作品を支えるという構造は、何も新しいものではない。現実的にそのキャラクターへのアクセスができないという意味で、キャラクター萌えの世界はアイドルファンの心理に通ずる。アイドルファンがメディアや、いいところライブかイベントを通じてしかアイドルにアクセス出来ないのと、アニメファンが、実際のアニメや中の声優を通じてしかキャラクターにアクセスできないのとは、相手が現実的に手がとどかないところにあるという点で、質において同じである。


けいおん!人気を支えるコア層は、作品の中で他のキャラクターとのふれあいの中で活動することによって人格を徐々に獲得していくところの、こうした特定のキャラクターへの愛情であることは間違いない。

ポイントはバランス加減と展開のしかけ



キャラクターが萌えるだけの作品であれば、それこそ各期に掃いて捨てるほど製作されている。それらとけいおん!の差異は、ではどこにあるのだろうか。


まず、けいおん!は、各期に大量リリースされるアニメの中の一サブカテゴリーを占めるところの、いわゆるパンツアニメではない。すなわち、そうした性的表現で視聴者を獲得する手法を採用していない。キャラクターに萌えさせながら、キャラクターのクリーンさ、作品の清潔さを保つこと、これが女子の視聴者を獲得するための必要条件となる。この段階で、各期の萌えアニメのほとんどはヒットの条件から脱落するだろう。


逆に、ここを超えられれば、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」や「花咲くいろは」程度までは行ける可能性が高いといえるだろう。


これらの作品を凌駕してけいおん!がヒットできたのは、おそらくその仕掛け方にあったのだろう。


いつもいうように、管理人は稼げるコンテンツが良い商業コンテンツであると考えている。ビジネスでアニメを作っている以上、当然のことである。その意味でも、上記の吾妻某の言はまったくナンセンスである。ビジネスのために作品を作っている以上、ストーリーがなかろうが何であろうが、顧客を満足させ、喜んでブルーレイを買いグッズを買う顧客がおり、しっかり稼げている作品に誰が文句を言う筋合いがあるだろうか。


けいおん!が作品を通じてしっかり売上を上げられたその構造は、これまでの深夜アニメの構造というよりはむしろ、子供向けアニメのそれに通じるところがあると思う。例えば今期放映されている女児向けアニメ「スイートプリキュア」は、当初から玩具で稼ぐことを前提に作品を製作している。同様に、けいおん!も、設定において既に音楽というコンセプトがあり、楽曲や周辺グッズで売りやすい状況が整っていたといえるだろう。


(注)なお、音楽を取り上げればそれでよいというわけではないことに注意したい。下手でも許される設定のもと音楽をネタにするというところが重要である。例えば、杉井光氏の「さよならピアノソナタ」というライトノベル作品は、音楽をテーマにしたキャラクター小説であり、ストーリーとしてもなかなかに面白い作品であるが、ヒロインの蛯沢真冬はピアノとギターの超絶技巧の持ち主であるという設定であり、ここがキャラクターの萌えポイントの多くを占めることから、下手にアニメ化すると失敗する可能性が極めて高い。


ポストけいおん!でTBSが考えるべきこと



TBSは、ハルヒらき☆すたClannadけいおん!と、このキャラ萌えカテゴリーで比較的コンスタントにヒットを獲得することに成功しており、次の一手が待たれる。ポイントは原作の面白さではなく、キャラ萌えのしやすい原画と設定、それにヒットした場合に周辺ビジネスがやりやすい設定となっているかどうかが勝負である。金の卵となりうる作品はメジャーどころではないところにもゴロゴロと転がっている。こういうところからうまく引っ張って、けいおん!と同程度のビジネスに仕立て上げることができるかが、有価証券報告書の「対処すべき課題」に掲げられる「アニメのTBS」ブランドを築けるかどうかの試金石となるだろう。