「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その3



(「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その1 はこちら)
(「迷い猫オーバーラン!」の迷走(10巻感想) その2 はこちら)

ライトノベルにおけるキャラクターデザイン変更の意味



ライトノベルというジャンルは、2000年代以降、曲がりなりにも小説の一ジャンルとして市民権を得て、少なくともアニメ市場に対する原作の重要な供給限として、日本のコンテンツ業界において一定の地位を占めるに至っている。近時発売されている日本のいわゆる一般の文学小説が、作家と読者双方の質の低下もあいまって、むしろライトノベル化しつつある中、そうした一般文学とライトノベルとの間の垣根の相対化を認めつつもなお両者の間の区別を求めるとすると、その差は「キャラ萌え」の有無にあると管理人は考えている。一般文学はキャラ萌えがなくても成立するが、今次のライトノベルはキャラ萌え要素なしには成立し得ない。


 ノベルゲームと同様、小説にキャラ萌えが発生するための要素は2つある。萌えるに値するキャラクターのシナリオ(原作)とこれによく合致する原画(イラスト)である。萌えが発生するために、シナリオがキャラクターを上手に動かすことが必要なのは言うまでもないが、そもそもその動く対象としてのキャラクターの姿かたちを決めるのは原画家である。確かに、例えば森鴎外の「舞姫」などは、イラストがなくとも十分にヒロインのエリスに萌えることができるが、こうした作品は稀であり、当代一の小説家をして初めてなし得る所業である。一般のライトノベル作家が自らの文章力でこれが可能と考えるのは、己の力を知らなすぎると管理人は考える。


 ライトノベルにおいては、キャラクターは小説の表紙を飾り、消費者は原作を読む前に原画家が描いたキャラクターに邂逅する。その意味で、ライトノベルにおけるキャラクターデザインは、時として原作の中身以上に重要である。極めて控えめに言っても、キャラクターデザインは原作で表現されるキャラクターと分かち難く結びついていることは間違いない。


 実際、こんなエピソードがある。涼宮ハルヒの憂鬱が大ヒットした際、インタビュアーが谷川流氏にヒットの理由を尋ねたとき、谷川氏が答えて曰く「いとうのいぢさんのキャラクター原画の力が大きいと思います」。涼宮ハルヒの憂鬱は、角川書店が主催する公募新人文学賞であるスニーカー大賞において、1998年以来4年にもわたり出ていなかった大賞を受賞した作品であり、SF作品としても一定の評価を得ている。その意味で、同作品のシナリオ(原作)が秀逸であることは否定し得ない事実であるが、そうした作品の原作者をして、売れる作品となるためにはキャラクターデザインが決定的に重要であると語らしめるほど、ライトノベルという商品の商業的な成功にとって、キャラクターデザインは重要なのである。


 ライトノベルの世界観がシナリオ(原作)とキャラクターデザインの双方が分かちがたく結びついて作られている中で、キャラクターデザインが一変するということは、作品の世界観を一変させるということを意味する。今回のぺこ氏の降板は、単にイラストレーターがぺこ氏から他の人に変更するということを意味するものではなく、ぺこ氏がキャラクターデザインを通じて重要な一翼を担っていた「迷い猫オーバーラン!」の世界観を改変することを意味する。このように考えると、「迷い猫オーバーラン!」におけるぺこ氏の降板は、同作品にとっての危機である。少なくとも、9巻までの「迷い猫」と10巻以降の「迷い猫」は、作品としての連続性を喪失していると言ってよい。

迷い猫の暴走(オーバーラン)の果てに



 
 もちろん、集英社としては、理屈上は、キャラクターデザインのロイヤリティを引き続きぺこ氏に支払い、他の人が同じデザインで挿絵を描くというアレンジを試みることも可能であっただろう。しかしながら、これでは矢吹氏とのアレンジメントと何ら違いがなく、今回この様な形での決着は不可能であったことは想像に難くない。


 こうした経緯を経た上での苦渋の判断としてのぺこ氏の降板であることは理解するが、上述の通り、物語の途中でのキャラクターデザインの変更は、ライトノベルにとっての自殺を意味する。自殺というのが言いすぎであるのであれば、これによって「迷い猫」は半身不随の状態になったと言ってよい。読者は、「迷い猫」10巻を読みながら、いったいどの造形のキャラクターを頭の中で動かせばよいのだろうか。


 9巻までこのシリーズに付き合ってきたファンであれば当然、芹沢文乃とはクロスのついた赤いリボンを左右につけた金髪美少女以外には存在せず、赤髪で猫の髪飾りを付けた少女では断じてない。梅ノ森千世とは腰まで届く長い髪に大きなリボンを一つ頭に付けた可憐な美少女であり、とらドラ!逢坂大河を思わせるウェイビーヘアが顔にまでかかるような少女ではない。


 キャラクターデザインの変更はキャラクターの容姿にとどまらない。迷い猫同好会の面々が着ていたストレイキャッツの制服や、梅ノ森学園の制服にまで及ぶ。原作者はご丁寧に学園の制服の変更を千世に提案させ、普及促進のため迷い猫同好会のメンバーは新学年が始まる前から先行してこの新しい制服を着るのだとしているが、その設定はご都合主義を通り越してもはや興ざめであるという他ない。


 しかも各巻イラストレーター交代制なる体制をとったことにより、これ以降、このライトノベルのキャラクターは各巻ごとに異なるキャラクターデザインが採用されることが見込まれる。このことがライトノベルにとってどれほど愚かなことか、キャラ萌えというライトノベルの本質的要素に照らして考えれば、もはや多くの説明を要しないだろう。
 原作者は、11巻でもまた制服変更をやるつもりなのだろうか。さすがにそこまで愚かではなく、単にこの点を無視して話を進めていくのだろうが、いずれにしてもこの各巻イラストレーター交代制とは、かくも愚かな体制である。



原作者松智洋氏のスタンス



 「迷い猫」原作者である松智洋氏がこの体制をどう思っているか、これもまた知る由も無い。原作者は、アニメーター上がりの人物であり、その経歴が示すとおり原作に対して強い思い入れを抱くタイプの作家ではない。あかほりさとる氏とまでは言わないが、要するにコンテンツないし作り上げた世界観をいかに効率よく利用して最大の収益を上げるかということに関心があるタイプの作家である。


 このサイトの管理人は、これまで繰り返し述べてきたとおり、よい商業コンテンツとは稼げるコンテンツであるという基本スタンスを持っており、上記のような原作者の態度自身を非難したり否定したりするものではない。ぺこ氏の降板によって読者のキャラクターイメージが分散してしまうことは、売上にも大きくマイナスに影響するだろうから、その意味で、今回の降板は原作者にとっても避けたかった事態には違いない。


 けれども、それを超えて各巻イラストレーター交代制まで許容することが正しかったのかというと、管理人はとてもそうとは思えない。イラストレーター交代制は、たしかに一定の話題を呼ぶだろう。けれども、例えば12巻にいとうのいぢ氏が起用されたとして、いとう氏のファンが12巻を買い、さらに1巻から「迷い猫」を読み始める展開が期待できるだろうか。
 結局は、愛読者がキャラクターイメージの分散に違和感を感じ、本作品から離れていくという展開にしかならないのではないかと、管理人は予想する。



迷い、暴走する集英社



 繰り返すが、ライトノベルはキャラクターデザインと原作シナリオが分かち難く結び付いて一つの作品を形成しているという点で、一般の文学小説とは大きく異なる特徴を持つ。
 こうした特性を無視したライトノベルの展開は、それがいかなる形態のものであれ、うまくいくとは思えない。


 いやしくもコンテンツ取扱いのプロである集英社の編集者がこのことに気づいていないはずがない。にもかかわらず敢えて各巻イラストレーター交代制を採用したということは、ぺこ氏の降板による販売部数の減少を織り込んだ上で、これをリカバーする方策として、いわばカンフル剤として毎回人気のあるイラストレーター起用し、これを話題にすることで、絵買いの促進と、露出とマーケティングの足しにしようとしたのではないかと考えたくなる。


 これで本当に読者が踊らされて、販売部数を(増えることはないだろうが)維持することができるとすれば、それは管理人としては驚きである。これだけ面白くないライトノベルが氾濫する時代なので、交代制に踊らされて引き続き本作品を読み続ける読者もいるということであろう。


 こうした中、数多あるライトノベルのなかで本作品を第1巻の発売時から見出し、応援し続けてきた管理人ができることは、今回の一連の措置にあって読者ニーズを正しく踏まえない関係者の対応を本サイトで指弾し、11巻以降を購入しない意思をここに表明することくらいのものである。