アルテミスブルー ハルの物語 その2



(注)アルテミスブルーの感想を連載しています。感想のスタンスについては「アルテミスブルー感想その1」を、「ハルの物語その1」はこちらをご参照ください。


 そんな父親との和解を果たしたハルに、新たに襲い掛かるのが「操縦士型閉所恐怖症」である。大変化後、これに罹病したパイロットの多くは二度と空を飛ぶことができず陸に上がることになるという、パイロットにとっては文字通り難病である。持ち前のガッツと前向きな明るさでこれを乗り越えようとするハルをあざ笑うかのように、離陸のたびに訪れる発作。


ハルは、飛べなくなってしまったという事実よりも、これによって自分が江戸湾ズにいられなくなってしまう、江戸湾ズの住人にとって必要とされなくなってしまうという事実におびえる自分に気づき、自分にとって江戸湾ズがなくてはならない場所となっていることを改めて感じるのだった。


休暇をもらって実家に戻り、英気を養うも、夜ごとに見る悪夢。ハルは自分がアルテミスの女神に嫌われてしまったのだと悟る。そんなハルの元に駆けつけた桂馬の言葉がまた印象的だ。


桂馬  「好きか嫌いかじゃない。」
ハル  「えっ?」
桂馬  「あの空と俺たちの間にあるものは、
     好きか嫌いかじゃない。
     勝つか――負けるかだ。」
ハル  「――」
桂馬  「里心がつく前に戻ってこい。
     ――勝負はまだまだこれからだ。」


…勝つか…負けるか…
耳朶に残る桂さんの言葉・・・


そうだ、これは勝負
勝つか負けるかの勝負
わたしと…そしてアルテミスとの勝負…


ハルは拓哉との出来事があった夜、大空にいるアルテミスの女神に向かって叫んだ勝負の宣言を思い出す。勝負はまだまだこれからなのだ。


このシーンは、ハルの成長譚というテーマとの文脈で描かれるシーンではあるが、また桂馬の過去からの訣別というサブテーマとの関係でこのシーンを見ると、非常に興味深い。


ダラス200万市民の命を奪った航空機墜落事故のパイロットである父親と、この事故による非難に耐え切れず自殺した母親を持つ桂馬にとって、アルテミスの女神によって蓋をされた空は、「ふざけた空」であり理不尽の権化のようなものだ。


そんなアルテミスの女神を桂馬が勝負の相手と見ていたこと、自らの存在理由の全てを賭して戦う相手と見ていたことに、我々は気づかされる。


それと同時に、アルテミスとの戦いに敗れて8年の時を経てなお当時の傷を引きずる桂馬が放った「勝負はまだまだこれからだ」との言葉は何を意味したのだろうか。単にハルを勇気付けるだけの言葉であるとは思えない。その言葉は、言葉をかけた桂馬自身が予期しない、自分の内なる言葉であって、自らの言葉により、桂馬自身もまた気づきを得るきっかけとなったのだ、と解したい。


気づきを得て江戸湾ズに帰還するハル。リドレーによる金銭面での支援と桂馬の温かくも厳しい特訓に何度も失神を繰り返しながら再起に向けアルテミスへの勝負を挑みつづけるハルをめぐる環境は、元の江戸湾ズの竜宮城のような姿に戻っていくものと思われたのも束の間。ハルの大切な友人であるマリア・デル・オルモが故国サン・アントニオ共和国に帰国しなければならない事態が訪れる。


病み上がりのハルはマリアへの友情から、執念でマリアの空路によるサン・アントニオ行きをサポートする。マリアとの悲しい別れを経た後に交わされるハルとアリソンのやりとりが、親友マリアを喪失したハルの心の内を表していてとても興味深い。


アリソン 「アリー、江戸湾ズはずっと変わらない場所だと思ってたのに…」
ハル   「…この世界に変わらない場所なんてないのよ。…変わらないように見えても、少しずつ変化していくものなの。
      ……それが生きているってことなの。」
アリソン 「…悲しいね。」
ハル   「……うん。」
アリソン 「……」
ハル   「でも、同時にだからこそ素晴しいのよ。
      …変わっていくからこそ、人はその一瞬一瞬を大切に思えるの。
      その一瞬一瞬を大切に思えるのよ。
      ……一瞬一瞬、瞬間瞬間を大切に生きなければならないの…」
アリソン 「分かるわ、ハル・・・」


ここにハルの成長の痕跡と、その結果得た人生観が垣間見える。この人生観はまた、スコシタイガーの生き様、浪漫というもののありようを示しているものと見える。


そしてそれに深い共感を覚えるアリソンもまた、ハルと同様、江戸湾ズの住人が等しく持つ心意気=人生観を共有しているのだということを端的に示すとともに、ここでの会話は、大きく展開していく今後のハルとアリソンの人生をも暗示する。


ダイダロス計画で人類初の宇宙に到達するクルーであるハルの恋人、星野建夫。ハルは建夫にプロポーズされ、ダイダロス計画の実行地であるサン・アントニオに一緒に来て欲しいと誘われる。建夫のことが好きであるにもかかわらず煮え切らないハルは、とうとうその原因が自身の桂馬に対する愛情にあることを正面から認めざるを得なくなる。しかしそれは同時に、自らの愛が叶わないことを思い知らされる絶望の瞬間でもあった。


桂馬   「…人間は、自分を必要としてくれている人のために生きるべきだ。  
    …人に必要とされていながら…
      人に期待されていながら…
      …それに応えられなかった人間は惨めなものだ…」


ハル   「…桂さん…
      でも―でもわたしには―わたしにも大切な物はあるんです。
      大切な思いはあるんです。」


桂馬   「…空を飛ぶことか?
      …インド人、誰にも必要とされずに1人で飛ぶ空は孤独だぞ…
      …孤独で寒い空だ…」




どんな危険も顧みず、人間の限界を極め、突破しようとする『真の男』。
最新鋭のマシンを駆り、今のこの凶暴で凶悪な空を切り裂く、黒い稲妻。
現代のイカロス。
例えこの空の高みで待つのが死の女神だとしても、呵呵として挑み続ける大馬鹿者ーー勇者。
お金も、名誉も、命も、そして愛さえも、彼らの前では色褪せるーー
凡百の男たちが、妻や恋人や子供たちのことを想っている時に、
彼らは飛ぶ、この大空を。
アルテミスに蓋をされた息苦しい空を切り裂いて、
どこまでも駆け上がる。
誰も見たことのない、
空の頂点に君臨する女神の顔を見るために、
鋼鉄のじゃじゃ馬にのる騎士。
この世界で、彼らだけが女神の顔を拝する権利と資格を持つ、
選ばれた男たち。
戦う男。牙持つ男。
時代の流れと共に多くの男たちが失ってしまった資質を
今なお持ち続ける男たち。


この人は―桂さんは、その最後の1人。
この人のためにわたしが―女ができることは、
ただ見守ることだけ。
この人が再び飛び立ち、
アルテミス・ブルーに打ち勝つその時まで―
ただ見守ることだけ。
そして、その役目はすでにあの人が担っている。
最初からこの人の側に、
わたしの居場所なんてなかった…


こうしてハルは、江戸湾ズを去る決意をする。江戸湾ズに残ってしまうと、また自分が想いを暴走させて何をやらかすか分からなかったことが最大の理由である。その決断をするハルは、もはやかつてのような子どもではない。


ハルの心の中の理想の友達、今日子は、それをこう表現する。


今日子  「辛く苦しいのは、あなたが
      ようやく自分の人生を歩み始めたってことでしょう。
      自分で決断して、自分で責任を負い、
      自分の力で大切な人を守っていく自分の人生を。」
今日子  「あなたは大人になった。
      …あなたはもう自分を含めた、周りの世界が見える。
      …世界の中の自分の立ち位置が分かるようになった。
      …あなたはもう、頭の中に作った空想上の友達に話し掛ける必要はなくなったのよ」


新天地サン・アントニオでのマリアとの再会、新しい土地で、自分を必要としてくれる建夫のために生きることを決意したハルだったが、ダイダロス01の記念すべき地上上空100?の宇宙空間到達の直後に起こったテロ行為で、こうした生き方が間違っていることを確信する。人には居場所があり、その居るべき場所に人は居るべきであると。


建夫   「これで何もかもがはっきりするだろう      …僕という人間が、いったい何者であるか。
      …いったいどこから来て、
      そしてどこへ行こうとしているのか。
      …何を一番に、誰を一番に考えて生きていく男なのか。
      …全てが分かるはずだ。」


建夫もまた、上空100kmの宇宙空間から、自分にとって一番大切なのは宇宙なのだと確信する。そしてそうである以上、ハルを何よりも大事にすることができない以上、自分がハルを、ハルのあるべき居場所から遠ざける資格はないものと悟る。


ここに建夫もまた、江戸湾ズの住人と同じ、浪漫を大切にする人間であることが明らかになる。クールでハンサムで温厚・誠実な、一見、のんべですけべでやさぐれた桂馬と対称をなすかのように見えた建夫もまた、桂馬を始めとする江戸湾ズの住人と同じ人生観の持ち主であったことが鮮やかに示されている。


思えば確かに建夫はパンチョの店で江戸湾ズの面々と溶け込んでおり、江戸湾ズの面々も建夫を男っぷりを手放しで褒めている。どんなに好人物でもつまらない男には見向きもしない江戸湾ズの住人は、建夫という人間の本質を初めからよく分かっていたのだ。


アルテミスブルー感想その4「桂馬の物語」に続く)