アルテミスブルー 感想を記すに当たって



有限会社AKABEiSOFT2のブランド「あっぷりけ妹」から2月24日に発売されました「アルテミスブルー」をプレイし終わりました。


結論からいうと、前評判以上に素晴らしい作品でした。


近年の作品では、etudeという会社が3年半ほど前に「そして明日の世界より」という作品を、健速氏のシナリオ・プロデュースで発表していて、僕の中で大ヒットになりましたが、この「アルテミスブルー」は、これに匹敵する良作であると思います。


あかべぇ作品でいえば、僕の中では2008年のG線上の魔王以来の大ヒットと言ってよいと思います。


世評を色々と読みますと、アリーの可愛さとか、3章のクライマックスなどが高い評価を得ている一方、後半にケチを付けるものが多く、特に桂馬の物語を終焉させる部分は色々と批判を浴びているようです。


確かに最終章の桂馬の再挑戦の件はもう少し余韻を残すような見せ方(例えば、エンディングロールでほのめかして、最後に桂馬と亜希子とアリソンに加えてアリソンの妹か弟かが一緒に写っているセピアの写真か何かで締めるとか)をしたほうがスマートだったのかも知れませんが、シナリオライターの井上啓二氏は
、そこをしっかりと描きたかったということなのだと思います。


こういったシナリオものの作品は特に、おはなしの描き方は我々ユーザーのニーズによって評価するではなくシナリオライターの手に委ねられるべきものと僕は考えます(るーすぼーい氏の作品などもこの類型に入りますね。)。その上で、その作品からどういったものを読み取ったかということを、レビューすべきだと思うのです。それは、しっかりとした文学作品を読んでこれに感想を述べるのと似ています。


本作品は、その下準備にあたるリサーチから場面設定の組み方、キャラクター造形やシナリオ上の仕掛けまで、井上啓二氏の渾身の作というべき出来のシナリオであり、これに応えるようなレビューを世に問うことが、ユーザーとしての礼儀、あるべき姿であろうと思いましたので、そんなスタイルの長文感想を記したいと思います。


そういった趣旨の感想・レビュー文章なので、当然のことながらプレイ済であることを前提とした記載となっております。したがい、未プレイでネタばれを忌避する場合には、プレイ後に自分の感想と照らし合わせて一読してもらえればと思います。


〜目次〜
感想その1 「感想を記すに当たって」 このエントリー
感想その2 「ハルの物語その1」   こちら
感想その3 「ハルの物語その2」   こちら
感想その4 「桂馬の物語」      こちら



アルテミスブルー

有限会社AKABEiSOFT2さんがあっぷりけ妹ブランドで発売中の「アルテミスブルー」をプレイ中。


これ、かなり面白いです。仄聞するところによると後半から失速するそうですが、今のところとてもよい出来に仕上がっています。


終わったらレビューを書きますね。

ラブラブル感想 SMEEの凄さについて



放置していた間もいくつも作品を楽しんできましたが、さぼってました。
まあ、いいんです、自己満足なつぶやきなので。



ラブラブル感想



ということで、SMEEから2月25日に発売されました、“ラブラブル〜Lover able〜”、もう英語からして意味不明ですね。この作品(特に花穂ルート)を楽しんだ後には、おそらく真意は“Lovable”なんだろうな、ということが分かります。
これじゃタイトルにならねぇーぞ、ってことで日本語の語呂を合わせに来たんでしょう。
この手のことはよくあって、例えば「ぱれっと」さんが2008年に発売した“さくらシュトラッセ”、あれもドイツ語の読みをタイトルに合うようにいじりました、という話を聞いたことがあります。ドイツ語分からないので検証できませんが。。。




ラブラブルのすごさについて



なにはともあれこのラブラブル、何がすごいかというと、投資効率を最大限に高めようという会社の並々ならぬ決意が見て取れる作品なのがすごい。もうそれを隠す気などハナからないところがすごい。


この手の作品を世に出すためにはだいたい2000万円くらいかかるという話を聞いたことがありますが、このうち制作費に当てる部分を、この作品の「目的」にフォーカスして使おうという方針が、作品全体を貫いているんです。


つまり、「ヒロインとのいちゃラブ」をユーザーに楽しませる、ということだけを考えて、ここに制作費を集中投下した作品といえます。
どういうことかを詳しく述べましょう。



ベタな設定



まず、ヒロインはお姉さんキャラ、不思議系ボクっ娘、天然系美少女、ロリ系後輩、そして妹という典型的なキャラクター造形、舞台もレストランのバイト先っていう、むかしむかしからの伝統芸能みたいな設定になっていて、ここでおかしなひねりを入れることはしない。

脇役の省力化



次に、脇役の絵の少なさ。野球部員やざますおばさんなど、おもろいキャラがいるけれども、一切立ち絵なし。バイト先の人も名前のないウェイトレスが平気で出てくる。結構色々話に絡んでくるビッチ姉すら立ち絵なし。ダメ押しにつぐみシナリオで結構重要な役どころを演じる奈緒にいたっては、良くわからん斜めの立ち絵一枚でシリアスシーンもこなす押しの強さ。
脇役なんぞに金をかけられない、という割り切りが素晴らしい。


極めつけは男性キャラ。巷では「男性キャラの絵がヘタ」などという、見当違いの感想も聞かれるが、これは原画一枚ですべてのシーンをこなせるように、敢えてこんな絵にしているのだ
店長と流星の顔のパーツが単純なパーツで構成され、真ん中に寄っているのは、こうしておけばパーツを上下左右に動かす(差分作成)だけで表情が作れ、別の絵を用意しなくてすむからだ。
絵を一枚にする、という方針がまずあって、それを不自然に見せないための絵が求められた結果、あのような絵になった、というのが実際のところだろう。



開発陣がやりたかったこと



ここまで開発陣がコストを削ってやりたかったことは何か?


それは「ヒロインとのいちゃラブ」を実現することに徹底的にこだわったことだろう。


まず、どのヒロインの服装もとても凝っている。フルーティアの制服のフリフリっぷり、前にどこかの絵師から聞いたが、フリフリの服っていうのは書くのにすごく時間がかかるらしい。フルーティアの制服だけでなく、普段の服もとても凝った作りだ。


そしてその服装がすべてのヒロインについてユーザーが選択できる。これはそれぞれの絵柄ごとに差分を用意しなければいけないことを意味するので、とても大変な作業だ。


また、どのヒロインも髪型が選べる。これもそれぞれの絵柄ごとに差分を作る必要があることになる。よく分からないが、服装と髪型の組み合わせ(4通り)でおかしなことがおこらないかのバグチェック等も色々と大変だったことだろう。


さらに文脈とは全く関係の無いコスプレ服が用意されているにいたっては、親切設計というほかない


さすがにそれぞれをやらないと絵がオープンにならないという、やり込みを求めるゲームでないことはSMEEも自覚していて、ヒロインをクリアすると差分がオープンになる仕組みになっている。このあたりのさじ加減もよろしい。


それと、もう一つ強調しておきたいのは、キャラと絵だけに力をいれればユーザーが萌えるなどと勘違いしていない点が素晴らしい。先ほど言ったように、キャラ造形や設定はめちゃくちゃベタなんだが、シナリオとセリフは実は相当がんばっている。


まず、ヒロインと仲良くなって告白にいたるまでの描写は、この手の作品には見られない丁寧さがある。ヒロインごとにとても丁寧に、相手を意識しているところや恥ずかしがっているところを見せたり、という心遣いをしているので、唐突感や違和感が少ない。これに一役買っているのは、携帯電話という小道具だろう。


また、初めてのシーンへの流れも、やたらとリアルだ。確かにこういう流れでバイト先の女の子を落としたよな、なんて思わず自分の過去を回想するくらい、リアルなんである。


そして、見せ場のいちゃラブにいたっては、このセリフ回しや舞台設定、このシナリオライターは四六時中こんなことばっかり考えてんだろうなコノヤロウ、というくらい甘々コテコテ。



開発陣のいちゃラブに対する考え方



サイトでもうたっているが、いちゃラブイベントがあればそれでいちゃラブになるわけじゃない。大事なのは、周辺の仕掛けで「いちゃラブ感」を高める、ここがポイントなのだ。これにって各イベントの破壊力は断然増している。これにより、自分のお気に入りのキャラを攻略している最中は、脳髄が溶けるような感覚を味わうこと間違いなしである。おそるべし、ラブラブル。


しかも、ヒロインごとにちゃんと終盤に、ヒロインの過去を交えたちょっといい話を挟んでくるところも、なかなか憎い。少しとってつけた風のものもあるけど、主人公とヒロインがこれからも仲良くやっていくためにキーとなるようなエピソードがちゃんと挟まれているところは、作品を平板なものにしないために大事な要素だ。


絵による描写とシナリオまわしは、ヒロインへの愛と作品への共感を生むために不可欠な要素であることは言うまでもない。でも世間では、某「いとう○いぢ」を抱えるブランドのように、絵は第一級なんだがシナリオが全然これについてこれないなんてところが山ほどある。
この両方を高めるような作品を作ろうとすると、制作費が高騰してしまって投資回収が図れないことになる、というのは、もう映画でもゲームでも、コンテンツ制作が抱える大きな課題だ。


ラブラブルはこの課題に、選択と集中によって回答を出した。いちゃラブの演出とユーザーの共感に直接つながる部分にはしっかりこだわり、世界観の確立やリアリティを高めるための演出となる脇役や男性キャラ、背景には徹底してコスト削減を図る。


このメリハリと調整の妙こそが、ラブラブルの真骨頂である。


したがって、この作品に対して、「男性キャラがおかしい」とか、「奈緒ちゃんの立ち絵がおかしい」とか、「美冬エンドを用意しろ」とかいうのは、この作品の狙いと本質を理解しない暴論である。そんなところはとっくにこの作品は捨てている。
開発費用の中でユーザに最大のいちゃラブゲームをお届けするための冷徹な計算が、この作品には貫かれている。



オススメは「つぐみ」



ちなみに、僕の一番のおすすめキャラは、断トツトップで「姫野つぐみ」ちゃん。どちらの髪型もたまらないし、イベントの盛り上げっぷりももう尋常じゃない。先輩大好きなつぐみちゃんキャラと、終盤に見せる包容力の片鱗、そしてその思いに隠された過去、最高です。この手のいちゃラブメインのゲームをしていて脳髄が溶けるような感覚を味わい、そのあと何時間かもどってこれない体験をしたのは、十ウン年の美少女ゲーム歴の中で初めてかもしれない。


子どもをモデルにしようとする親のインセンティブを奪う

 少女モデルの低年齢化が極端に進んでいるようです。


 直接リンクを貼るのは気が引けるので、実態についてはGIRLNESSさんのサイトを見てみてください。


 こういうものの氾濫に対処する方法としては、もちろん前回のエントリで紹介した児童ポルノ規制法みたいな方法もあるんですが、子どもをこういうところに晒そうとする親のインセンティブを奪うという方法も考えられていいのではないかと思います。

 
 こうした児童(児童ポルノ規制法では児童を「18歳未満の者」と定めてるので、これに従うことにしましょう)がモデルになるにあたっては、通常、何らかの形で親の意思が反映されるわけです。例えば5歳だとか9歳だとかいうモデルは、真の自分の意思でモデルをしているわけではないはずで、そこには親の意思が色濃くあると容易に想像できます。13歳とか15歳とかのモデルについては、自分の意思でやっているのではないか、という反論もあり得ますが、少なくとも法律は、こうした18歳未満の少年少女の意思を、自己責任が問える意思だとは考えていません。そうであるからこそ、本人が承諾して行ったものであろうとなかろうと、こうした少年少女の権利を「保護」するために、児童ポルノが父権的に違法となっているわけです。少なくとも18歳未満の少年少女は、社会の中の様々な行為について親の同意が必要な存在とされているわけで、その意味で、彼ら彼女らの行動は、親の一定の支配下にあるということは、いえると思います。


 では、子どもをモデルにしようとする親は、一体何を考えて子どもをモデルとするのでしょうか。単に我が子を有名人にしたい、というだけではないように思います。つまり、子どもをモデルとして働かせれば、当然これに対して一定の報酬が発生します。この報酬が親にとって子どもをモデルとするインセンティブの一つとなっていることは想像に難くありません。


 親による子からの搾取を防止するため、ハリウッドを擁するカリフォルニア州には、Child Actor's Billまたの名をCoogan Actと呼ぶ法律があります。この法律は、簡単に言うと、子役の報酬はその子どものために設定した信託に払い込み、子どもが成人になったら払い出される仕組みにしなさい、ということを定めています。この法律は1939年と古い法律ですが、当時の名子役Jackie Cooganが子役時代に稼いだお金が、親によってその大半を費消されてしまったことを発端に成立したものです。この法律でカバーされる未成年者の範囲は、成立後年とともに拡大しています。

 
 児童ポルノの販売行為を罰したり、単純所持を罰したりというのは、その作品が「児童ポルノ」に該当するのか、というところでどうしても曖昧な領域が出てきます。勢い、業者や子どもをこうした業界に送り出す親は、合法ぎりぎりの線を狙って作品を作り続けるでしょう。こうした事態が未成年者の権利の保護にどの程度つながってくるのか、疑問がないわけではありません。また、こうした表現の内容に着目した制限は常に、憲法によって保障されている最も重要な人権ともいえる表現の自由との緊張関係を孕みます。


 このような表現内容に着目した規制に比べ、子どもの意思決定を支配、またはこれに深く関与する親の側の、子どもをモデルなりにしようとするインセンティブを奪ってしまうというCoogan Actの方策は、作品の製作側の自由を過度に奪わないという点で、優れているように思います。親のインセンティブを奪うだけでは十分に規制しきれないという面ももちろんあるでしょうから、現実的な手立てとしては、おそらくは両制度を併用するというのが妥当だろうとは思いますが。


 ちなみに、このような制度を作っても製作サイドは黙って親に金を払ってしまうのではないか、という懸念に対しては、もちろんこのような支払いを違法化して、違反したものに対して罰則で臨むべきだ、と答えることになるでしょう。なお、設定した信託の信託受託者が、勝手に親に払いだしてしまうのではないか、という懸念は、基本的には杞憂と考えてよいと思います。信託受託者の受託者責任は非常に重く、信託の本旨に反する信託財産の処分は、信託受託者自身の不利益となりますので、敢えてそのような不利益をこうむる危険を冒してまで親に支払いを行う信託受託者はないだろうと考えてよいと思われるからです。


 子役の供給を減らす可能性のある立法なので、非常に強い政治力を持っているマスコミを相手としなければならない点が厄介ですが、「子どもを保護する」という大義以上に強力なこの制度に反対する大義ないし理屈は、さすがのマスコミでもなかなか思いつかないのではないでしょうか。

児童ポルノの単純所持の違法化

 
 アメリカから、日本も児童ポルノについて単純所持も違法化するよう要求があったとの記事が出ています。


1.日本の現行法


 現在、日本には「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(「児童ポルノ禁止法」)という法律があります。この法律によると、「児童ポルノ」とは、写真、ビデオテープその他のものであって、次のどれかに当たるものを言います。
a 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの
b 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの
c 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの


 そして、処罰される行為は、
a 児童ポルノの頒布、販売、業としての貸与、又は公然陳列
b aの目的で、児童ポルノを製造、所持、運搬、日本に輸入、又は日本から輸出
c 日本人に限り、aの目的で、児童ポルノを外国に輸入、又は外国から輸出
ということになっています。


 このように、現行法では、処罰の対象は、頒布、販売、業としての貸与又は公然陳列のうちのいずれかの目的がなければならないとされていますので、個人で楽しむために持っている人は処罰されないことになっています。今回の米国の要請は、この部分の穴を塞ぐべきだという要請と考えられます。


2.児童ポルノ禁止法と裁判所の考え方


 米国の議論は、簡単に言うと、販売する者が違法なのにこれを買った者が違法にならないというのはおかしい、というものです。この主張は妥当なものでしょうか。


 これを検討するには、日本の児童ポルノ禁止法がどういう考えのもと単純所持の買主を罰していないかを考える必要があります。


 売る人と買う人、あげる人と受け取る人等の双方がいて初めて犯罪になる犯罪を「対向犯」といいます。対向犯には、a.双方とも処罰され、双方に対して同じ法定刑が科されるもの、b.双方とも処罰されるものの、一方の刑罰がもう一方の刑罰に比べて軽い(又は重い)もの、c.一方だけ処罰されるもの、の3種類があります。a.の典型例は、例えば重婚罪が、b.については贈賄罪と収賄罪が(収賄罪の方が重い)、c.の例としてわいせつ物頒布罪が挙げられます。今までの説明から分かるとおり、児童ポルノについての罪は、日本では現在c.に当たります。


 なぜ児童ポルノについて、売る人だけが処罰されて買う人は処罰されないのでしょうか。


 売る人だけが処罰されるのは不公平で憲法の平等原則に反するという主張に対して、日本の裁判例は、売る人と買う人では、売る人の方が違法性が強いのに対して買う人の違法性は犯罪で罰するほどのものではないから、平等原則には反しないと考えています(大阪高裁平成18年9月21日の判決や、福岡高裁那覇支部の平成17年3月1日の判決は、こういう考えをとってます)。


 日本の裁判例は、平等原則について、不平等な取扱いは原則してはいけないが、合理的な理由があればそのような取扱いも認められる、と考えていますから、児童ポルノを売る人と買う人では違法性の度合いが違うはずだ、という児童ポルノ禁止法の建前を合理的なものとして是認したということになります。

 
3.日本の立法の妥当性


 売る人と買う人を区別して売る人だけを罰するという建前は、刑法上のわいせつ物頒布罪等には妥当するけれども児童ポルノ禁止法には妥当しない、という考えもありうるように思います。


 先ほど対向犯のところで説明したように、日本の刑法には、わいせつ物頒布罪という罪があります。これは、わいせつ物を頒布したり、頒布の目的で所持したりする行為を罰するものです。わいせつ物頒布罪が罰せられるのは、このようなわいせつ物が世の中に流布すると、社会の善良な風俗が害されるから、これを防止するためだと言われています。先ほど説明したように、これは単純所持は罰せられません。


 わいせつ物頒布罪について、売る人が処罰されて買う人が処罰されないのも、児童ポルノ禁止法と同じように、売る人の違法性は高いのに対して買う人はそれほどでもない、というのが理由になっています。この場合、何が「違法」なのかというと、社会の善良な風俗を害すること、なのですから、世の中にわいせつなものをばら撒くのは違法だけれども、自分でこっそり楽しむだけなら世の中に迷惑をかけないから違法じゃない、という判断は、比較的しっくりきます。


 これに対して、児童ポルノ禁止法はどうでしょうか。この法律は、その第1条で以下のように言っています。

「この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性にかんがみ、児童買春、児童ポルノに係る行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定めることにより、児童の権利の擁護に資することを目的とする。」


 つまり、この法律は、社会の善良な風俗を守ろうという法律ではなく、児童ポルノの被写体になった児童の権利を守ろうという法律なのですね。


 児童に対する性的搾取や性的虐待という害悪にとって、売る人と買う人というのは、裁判所の言うように、また児童ポルノ禁止法が暗黙の前提とするように、違法性の度合いが違うものなのでしょうか。買う人がいるから売る人がいるわけで、児童の人権を守るという見方からすると、なんだかどっちも悪いような気もしてきます。売るつもりの人の方が、児童を食い物にしている度合いが高いと思うので「同罪」とまでは言いませんが、買主も片棒を担いでいるのは確かで、これは処罰に値する程度のことだ、という判断も十分にありうるように思います。


 裁判所は、その権限上、買主が罰せられないという法律は合理的ですか、という問いに対して答えることしかできません。罰せられない、というのは、買主の違法性の程度をどの程度と見るか、という話で、これは要するに「決め」の問題です。なので、国会が買主の違法性は犯罪とするほどのものじゃないですね、という「決め」に対しては、裁判所が国民の民意を反映している国会の判断を尊重することは、ある意味当然のことだと思います。


 これに対して、立法府としては、民意の動向を見た上で、単純所持についてその違法化に踏み切ることも、十分な合理性があるように思います。

復活しましたよ

 家でネットが使えないという地獄のような日々が続いてましたが、ようやく朝が来ました来ました。

 
 ネットが使えないと、勢い他のことをする時間が増えるわけですが、とりあえず「かにしの」クリアしましたしました。奏ちん、可愛いけどちょいと語尾がうざかったかなぁ。


 ところで、ずいぶん昔のエントリで、かにしのの体験版やったけども何がおもろいのか良く分からん、と書きました。これ、半分訂正。やってみたら割と面白かった、はい。でも2006年最高レベルはちょっと言いすぎのような、という気がします。

 それから、このゲームで確信したこと一つ。


「すみません、北都南さんの声は苦手です。」
 
 
 彼女が出ているゲームはいくつかやりましたが、今までどれも好きになれませんでした。そして今回、みやびーは本来、スペック的には結構好きな部類のキャラに入るはずだったんです。世間の評判も高い。けどダメでした。となるとこれはやっぱり「声」がしっくりこないんだなぁと。

 
 この未熟者めが!はい、精進させていただきます。でも安玖深音さんの声はやっぱり好きです。みさきちっぽいキャラによぅ合いますねぇ。

ぱれっと「もしも明日が晴れならば」感想(つばさ編)

 昨日に続き、ぱれっともしも明日が晴れならば」の感想です。今回は、本作品中、私見によれば最もよくできているつばさシナリオ。感想という性格上、ネタバレしていますので、未プレイかつプレイ予定の方は回避をお願いいたします。




つばさシナリオについて



 個人的には、この「もしらば」で最も人物描写が優れていると思ったのはつばさです。つばさは甘えん坊で、デキるお姉ちゃんである明穂を心から尊敬し憧れつつ、自分でもそれに近づこうと努力するもののなかなかかなわず、そんな自分と姉とを比較して落ち込み、つい消極的な思考をしてしまう、そんなタイプのヒロインです。同性の兄弟、姉妹というのは、無意識的にであっても第三者から比較の対象とされてしまいがちです。そしてそんな比較に一番敏感に気づくのは、比較されている本人達、特に「第三者から見て劣っていると思われているだろう」と感じる方(年上の方(姉や兄)の場合もあるし、年下の方(妹、弟)の場合もあります)でしょう。彼ら、彼女らは日常的にはとても仲がよく、兄姉は弟妹の面倒を良く見るし、弟妹は兄姉のことが大好きで自慢の兄姉だといいます。けれども劣っていると感じる方は常に、もう片割の方に対して屈折した感情を抱いています。兄弟、特に年が近い兄弟がいる方であれば、この辺りとても共感できるのではないでしょうか。


 この相手に対する複雑な感情は、しばしば物語のテーマとして取り上げられます。ぱっと思いつくものでは、例えば週刊少年マガジンで連載中のサッカーマンガ『エリアの騎士』(原作:伊賀大作、漫画:月山可也)とか、少女漫画では水沢めぐみの短編『天使たちのティータイム』(トウ・シューズ第4巻に収録)があります。ポイントはやはり、いつも比較されある種の劣等感を抱いている方が主人公となるってところ。彼ら、彼女らが、自分は片割との比較において評価されるべき存在ではなく、自分らしくあることが片割にはない自分の魅力なんだということに気づくまでの過程が、一つのストーリーを織りなすわけです。その意味でつばさシナリオは、物語の王道を行く設定を持ったシナリオだと言えると思います。


 けれども本作品では、この着地点に至るまでの過程は、かなり壮絶なものです。尊敬する大好きな姉の明穂の死を前に喪失感に苛まれつつも、心のどこかでこれで桎梏から解放されるという安堵感、自分にも一樹に対する思いを伝えるチャンスが巡ってきたという期待感を感じざるを得ず、そう感じてしまう自分に気づき、つばさは自己嫌悪に陥ります。長い間姉と生活する中で身についてしまった消極的・ネガティブな性格は、そうした性格を獲得する契機となった人物が死亡し、実在しなくなったことにより解消されるわけではないのです。つばさシナリオは、明穂を思う一樹をどう自分に振り向かせるか、明穂とつばさの戦いのように一見思えますが、本当の戦いはむしろ、つばさ自身の消極的な心との戦いなのです。


 しかしつばさは、なかなかそのことに気づきません。大好きな「お兄ちゃん」が自分に振り向いてくれるや、「お姉ちゃんに勝ったんだ」と感じ、そう感じてしまう自分にまた自己嫌悪。お姉ちゃんはいつも自分を守ってくれたのだから、私は一番大切なものはお姉ちゃんにあげるんだ、との思いから、つばさになびいた一樹を受付けません。こうした思いと、それでも一樹と共にいたいという思いから、果てには、自分自身を殺し、自らが明穂自身に成り代わる、というある意味倒錯的な解決策にも出ることになります。


 個人的には、つばさが明穂を演じるくだりが、『もしらば』で最もオリジナリティのある秀逸なシナリオだったと感じます。この場面を唐突で不自然なものとしないよう、つばさを演劇部所属と設定し、文化祭の演目に『お気に召すまま』を選んでいるわけですが、この設定、特に『お気に召すまま』の練習過程とハプニングにより一樹が代役に立つ経緯あたりは、それだけでも一樹とつばさの関係性を描く題材としてよく描けている部分であり、よくもまあ、きれいに話をつないだなぁ、と改めてシナリオライターのNYAONさんの力量に感服するわけであります。また、つばさの声を担当しているみるさん(壱智村小真さん)も、この部分で明穂をうまく熱演しています(ところどころ、本当に明穂(西田こむぎさん)が喋っているんじゃないか、と思わせるところがあり、また他方でつばさが一生懸命真似ていると感じさせるところもあり、そのムラのありかたがまたリアルさを増しています)。


 結局つばさは、最後は尊敬する大好きな姉である明穂の力を得て、桎梏からの解放のきっかけを得ます。時間はかかるだろうが少しずつつばさは変わっていくだろう、という方向で物語を締めくくっているのも、つばさの基本的な構えともなっているその性格が急激に変わることは考えにくいことからすれば、とてもリアリティのある締めくくりだったと言うことができます。


 かくしてつばさシナリオはエンディングを迎えるのですが、一つどうしても消えない疑問が残ります。それは、「果たしてつばさは本当に一樹のことが好きだったのだろうか」という根本的な問いです。


 昨日書いたとおり、一樹の基本的な性格は、その生い立ちにより、誰にでも優しく接するものの線が細く、いわゆる「尻に敷かれたい」タイプのキャラクターです。これに対し、つばさは甘えん坊、頑張り屋であるもののなかなか成果が出ず、見ている者にかまってあげたくさせるキャラクターです。このような二人が本当に惹かれあうのでしょうか。とても男を尻に敷くようなタイプではないつばさを一樹が好きになるかという点もそうですが、ここでは、つばさは、優柔不断で時として頼りない一樹のようなタイプの人を本当に好きになるのだろうか、という点にフォーカスしたいと思います。

 
 つばさが一樹を好きと感じたのは、自分が最も尊敬し、目標にしてきた姉の明穂が一樹を好きだった、そのことの故なのではないのでしょうか。自分の理想である「お姉ちゃん」が好きな人である以上、その理想に近づくために私も同じ人を好きになる必要がある、そういう気持ちがつばさに全くなかったといえるでしょうか。物語の出発点であるはずの主人公への想い、それすらも、実はつばさの姉に対して抱く複雑な想いに由来しているとすれば、明穂の桎梏から解放された後のつばさが、果たして一樹を好きでいられるのかどうか。ここまで思いを至らせて作品を作っていれば、さらに深く練られた作品に仕上がっていただろうと感じます。その意味では、つばさに「事実上の婚約指輪」を渡したという話の流れは、余りにも無邪気なハッピーエンドだったのかもしれません。百歩譲って、つばさシナリオでは単純なハッピーエンドを採用したとしても、千早、珠美シナリオで(特に珠美シナリオがよいと思いますが)、つばさの「お兄ちゃん」への想いの正体につばさ自身が気づく、というくだりを盛り込むなどして、話をより深くすることはできたんじゃないかと思うわけです。


 ちなみに、指輪をあげた、というシナリオにするならば、最後の一枚絵は、その指輪が見えるように描かれるべきでしょう。夏空の下、つばさの左薬指には、夏の太陽を反射して太陽に負けないくらいのきらめきを発する一条の白い光----とても小さな部分ですが、つばさシナリオのカタルシスを高める非常に有効な手段のはずです。