「いつか、届く、あの空に。」感想

 ここ2週間ほど取り組んでいた「いつか、届く、あの空に。」をコンプリートしました。
 

 ゲームをする時間はあまり取れないことや、海外発送にすると一本あたりの値段が高くなってしまうのとで、様々なサイトから良作の評価を得ているゲームを選んで遊んでいるんですが、この「いつか、届く、あの空に。」は、様々な評価が分かれている中で、購入に踏み切ったゲームでした。それは、一つには、体験版の前半が上手いところで終了し、ふたみと策の続きが気になったということもありますが、それ以上に、朱門優さんのシナリオに引き込まれたということが挙げられると思います。

 
 で、結果的には購入して大正解、本当にすばらしい作品でした。北欧神話をバックボーンにした話とのこと、ラグナロクなんていうのも神to戦国生徒会で初めて聞いたくらいこの分野については何も知らなかったので、この際にウェブサイトで色々と勉強させてもらいました。唯井(雲戌亥)家、桜守姫家と明日宿家の確執の大本がこの神話までさかのぼっているという設定となっており、本編で展開されるストーリーと神話とのつながりの詳細は、全編をクリアした後に現れる「異ならぬ世の終わりより」編によって明らかにされるという構成をとっています。


 物語の全貌と伏線、背景事情に関する詳細な考察は、「かくかたりき」さんのサイトで取り上げられているのが個人的には一番分かりやすく感じました。時系列的なまとめ表もついており、「プチ考察」と題しながらも相当な力作に仕上がっていると思いました。オフラインでも立派な仕事をされている方なんだろうなと想像いたします。

 
 それにしてもこれだけの膨大な情報量をシナリオにまとめこんだ朱門さんの筆力には脱帽するばかりです。多用されている比喩表現も、物語の世界観を表現する一手法として有効に機能していると思いましたし、僕のように何の基礎知識もないユーザーでも丁寧に文章を読んでいけば十分に内容を把握できましたので、シナリオが悪い、投げっぱなし、矛盾だらけ云々という批判は中らないように思います。


 さらにすばらしいと思ったのは、各シナリオを通じて共通したテーマが物語全体に通底していると感じさせたことでしょう。ジブリ作品ではよく「作品を観た者はそこに勝手にテーマなり作者の意図というものを読み込みがちだが、作者自身は何も意図していない」というようなことが言われますが、作品の評論などというのは江藤淳にせよ小林秀雄にせよ本来的にそのようなものなんじゃないかと思うわけで(そうでないとすれば、作品の評論を最も能くし得る人は作者自身ということになってしまうわけですが、それはなんとなくおかしい気がします。法律の解釈が立法者意思にのみ拘束されるわけではないのと似ていますね。)、そうだとすれば、ここで僕が作品から何を読み取っても自由ということになります。と自らのこれからする行為を正当化した上で、本作品のテーマ的なものと僕が考えたものについて一言で言うと、「人間の強さ」ということになるんじゃないかと思うわけであります。


 これは色々なレベルでこの作品の中で見えていて、一つには神(宿命)と人間という対比の中で見せる人間の強さというものが、策の行動や、もし傘姉を「人間」サイドに置くのであれば(傘姉を人間サイドと見るのか、神サイドと見た上で傘姉の行動原理そのものを大きな矛盾と見るのかについては争いの余地があります。この点についての詳細は「かくかたりき」さんのサイトをご参照)傘姉の行動から強くうかがえます。


 また、「人間の強さ」というテーマは、この神と人との二分論を超えたところでも繰り返し強調されます。そもそも、神サイドに置かれている雲戌亥家や桜守姫家の人たちも、本当に純粋な神なのかと問われればむしろ人間なのではないかと思えなくもないわけで(実際、作品中、雲戌亥当主の静は、自らを「人間」であると規定しています)、また、傘姉も、自らを人間と規定しつつも、神を上回る魔術というか戦闘能力を身につけている点、もはや人の範疇を超えているのではないかという疑問を強くします。このように考えると、実はこの二分論は必ずしも絶対的な意味を持たない、非常に境界が曖昧な分類にしか過ぎないということになるのではないかと感じられるわけです。


 このように、神と人間という二分論を相対化した上で物語を見てみると、一応は神サイドに振り分けられている「人間」達の行動には、人というものの驚くべき強さが多く描写されています。これには、ふたみの照陽菜にかける想い、此芽の幼少時からの策に対する想い、静の葛藤の中から生まれ数百年に亘って守り続けた信念といったものが含まれるでしょう。


 そして、おそらくはその最たる者が策の持つ「解対」なのではないでしょうか。解対の本質は何なのか、というのは、作品の中でも明らかにされず、「かくかたりき」さんの緻密かつ詳細な分析をもってしても明らかにしきれなかった、本作品の最大の謎といってもよいものですので、その答えは人によって異なるのかもしれません。ただ、僕は、この解対なるものの本質は、おそらくは人の「想い」を実現する力のようなものなのではないかと思うのです。刀には刀を打った人、用いた人、それを伝説として語り継いだ人の想いがあり、それは手裏剣であっても、戦車であってすらも同じなのかもしれません。策が天に昇ったのも、自らを「狼殺し」という武器に姿を変えたのも、流れ星となってふたみのもとに戻ってきたのも、全てその「想い」があったからこそなのだと考えられます。


 そしてそのような解対を、上の二分論で言えばおそらくは人間サイドに振り分けられている策が持っているということ、そしてその「人間」策は、人生に落ちこぼれ挫折のきわみを味わった者であったということが、物語をより一層深いものにしています。実は人間は誰でも皆例外なく「解対」を使えるのではないか、「想い」を実現する力を持っているのではないか、神をもってしても回避不可能と考えられていたラグナロクを自らの力で回避ないし突破する力を。そんなメッセージをこの作品から感じました。


 想いは実現する。それがどんなに困難なことであっても、強く願い勇気を持って行動すれば、その想いは、いつか、あの空に、届く。本作品は、そんな人の限りない強さを高らかに謳い上げる人間賛歌なのかもしれません。