ぱれっと「もしも明日が晴れならば」感想(明穂編)

 昨夜、ようやくぱれっともしも明日が晴れならば」をコンプリートしました。事前情報どおり、共通部分がとても長いのですが、ストーリーがとてもきれいに織りなされていて、過去のやり取りを踏まえて初めて共感が持てるつくりになっているので、スキップするのに忍びなかったというのが、コンプリートまで時間がかかった一因だと思います。逆に言えば、それだけ共通部分を繰り返し味わう価値のある作品だというわけですから、シナリオを作成したNYAONさんは素晴らしいと思います。


 さて、作品の感想ですが、全般的な感想をいうと、シナリオ、画像、エフェクト、背景、音楽共に非常に良く作り込まれており、前評判通り名作の太鼓判を押してよいと思います。「いつ空」で素晴らしい解説を展開されて、以前のエントリでもりファーさせていただいた「かくかたりき」さんで義務ゲーとされているだけのことはあります。


 攻略可能キャラクタはメインヒロインの明穂、妹キャラのつばさ、つばさの親友の鬼切り珠美と、500年の年を越えて主人公を思い続ける千早、の4名ですが、脇役扱いの委員長=彩乃も明穂亡き後の主人公の受け皿となり得るとてもよい性格をしています。どうでもよいですが、八重歯もよいです。個人的に最も深く共感できたのはつばさシナリオ、次が彩乃、そして次が明穂でした。オープニングでも明らかにされている通り、本作品の一つのポイントは「家族の絆(bond of the family)」という点にあります。そこで、ここではこのテーマが最もよく現れている明穂シナリオとつばさシナリオに絞って、感想を述べてみたいと思います。


 感想なので、当然ネタバレしてしまいます。未プレイの方でネタバレを嫌う方は、以下回避していただければ幸いです。




明穂シナリオについて


  明穂はプロローグで死んでしまい、幽霊として登場しますので、明穂シナリオでは、どういう形で主人公とのハッピーエンドを迎えるか、というのが課題となります。死後相当の時間が経っていますので、明穂がそのまま生き返るという選択肢はありませんから、選択肢としては成仏→再生と進むしかないことになります。したがって、シナリオとしては、①成仏に至る過程を如何に描くか、②再生と再会を如何に描くか、の2つが見せ所となりますが、本作品では、①を膨らませるという方法論をとっています。ちなみに②を膨らませた作品としてRUNEさんの「初恋」が挙げられます。


  明穂は、つばさのナレーションにもあるとおり、明るく賢く料理も上手な、いわゆる完璧型、才色兼備のヒロインです。その素質は幽霊となった本編でも遺憾なく発揮されており、死による喪失感という話題に伴いがちな暗い雰囲気を見事に中和しています。その意味で、明穂は、明穂シナリオ以外のシナリオで、非常に重要な役割を果たしているというのは、自然なことなのかもしれません。明穂のファンの方達は、明穂以外のシナリオの明穂を高く評価しているのではないでしょうか。


  これに対し、明穂シナリオの明穂は、主人公一樹への執着ゆえに、学園祭の終了=夏の思い出の終了という成仏の絶好のチャンスを自ら放棄してしまいました。そして執着のもたらすまま主人公との時間を過ごします。主人公がこのままではいけないと自覚し、明穂に冷たく振舞うや、恋人ではなくてもよいし最愛の人でなくてもよいから傍にいさせて欲しい、と懇願するに至ります。一体これは明穂のあるべき姿なのでしょうか。個人的には、明穂の懇願モードを見て、Age『君が望む永遠』の水月を思い出さざるを得ませんでした。強い女性だからこその隠れた弱さ、というギャップを描くというのが一つの狙いだったのかもしれませんが、どこまでも明るく、極限までに魅力的に描かれている明穂でこのギャップを描いても、違和感が残るのみで、「強く見える人間の奥底に潜む意外な弱さ」という真実をあぶりだす効果を期待するのは相当難しいのではないかと思います。明穂は確かに主人公に対してだけは甘え、我儘を言いますが、それは、私だけを見てなんて言わないから側にいさせて欲しい、という方向での欲望、執着とストレートにつながるのか、というと、そこはかなり不自然な要素がある、ということなのでしょう。


  とはいえ、明穂が日々薄くなってきてからの主人公と明穂の関係性の結び方には、強く感動するところがありました。近いうちにいなくなってしまう、二人の関係は永遠ではないんだ、という自覚ゆえに、今ここに一緒にいられる時間をこの上なく大切にしたいと願う主人公の心境は、物事の見方に対する真理を含んでいるように思います。当然のことながら、僕達は常に生者と交流を持つ存在であり、愛する人もまた生きた人間です。いつでも、そしてずっと一緒にいられるからと錯覚し、一緒に過ごす時間をないがしろにしていないでしょうか。共にいられる時間が限られていることを自覚せざるを得ないからこそ気づく、一緒にいられる時間の貴重さ、かけがえのなさ、というのは、まさに、否定を通じて真実に到達する禅の世界の境地を良くあらわしていると思います。


  なお、転生による再会、という方向の解決は、ご都合主義、安易なワンパターン的な解決だとする批判もありうるところですが、個人的には十分にリアリティのある解決だったと感じています。人の死後と再生の条件について、極力客観的な解説を試みようとする、この分野での世界的な第一人者の一人とされる本山博氏の著書『カルマと再生』(昭和62年 初版 宗教心理出版)64〜65頁によれば、

① この世で、自分なりにほとんど過失なく仕事もし、家族とも社会の人々とも調和のある生活ができた人が、若い時、あるいは晩年に、金銭とか、対人関係、あるいは道徳的信条で誤りを犯し、それが死に際まで気になって、ぜひこれを来世で償いたい、誤りを正したいと強く希望して死んだような場合、霊界に留まることが僅か数ヶ月から数年で再生することがある

② 若い時に、自分の最善を尽くしたが人生の楽しみを十分に享受できずに病死をした人、あるいは国家間、あるいは部族間の戦で、個人の利益のためでなく、国のために、部族のために若くして死んだ兵士等は、早く再生するケースが多い

とされています。そして、①②のいずれの場合も、単に個人の再生への希望だけで再生が決まるのではなく国のカルマ、土地のカルマ、家のカルマ、個人のカルマ等の相互作用関係によって再生が定める、とされ、特に、最善を尽くしたものの、青春の希望がみたされずに病気等で死んだ若い人の霊が早く再生するのは、普遍的人間のカルマが優先して、再生することになったものと考えられる、と解説されています。


  明穂のケースは、まさに②のケースに該当すると考えられるので、早期の再生が果たされたとしても、それは再生に関する上記の理屈にかなったケースだと言えます。そして、再生した人は、前生で住んでいた土地や人と近いところで再生するとも言われており、10年後に新生明穂が主人公のところに現れたもの、縁のなせる自然な業として十分納得可能です。ただし、新生明穂がなぜ一樹を認識しえたのか、前生の記憶をどのように回復したのか、という部分については十分な説明がなされておらず、若干物足りないところがあります。


  再生の話に言及ついでに、さらに大きな物語の枠組みについて言及すると、シナリオライターの死後の世界の把握の仕方が若干甘いように感じます。上記の本によると、人は、大多数が死ぬとアストラル界というところに行きます。これはほとんど現世と同じようなところだそうで、ここにいる魂は、時を経て再度霊的成長の機会を与えられると、現世に戻ってきます。シナリオライターの観念する成仏、というものの正体が、再生に関する理論との関係でどのように位置付けられてきたのか、無意識的にか敢えてか、この辺りを曖昧にして、何となくの仏教的な説明でごまかしてしまって世界観を作ってしまったのではないか、という点が、惜しまれるところです。


(後半「つばさ編」に続く)