「ゆるゆり」ここに来てようやくブレイクの予感



 なもり氏原作で雑誌「コミック百合姫」(一迅社)で連載中のコミック『ゆるゆり』が、今期アニメ化されている。





 毎期見るべきアニメは、
1.期初にまとめ動画とテザーサイトをチェックして数個に絞り
2.その後1、2話見て更に絞りつつ
3.その後のブログ等での評価によって若干の追加調整を検討する
という、いわゆる3段階選抜法により選択するというのが、貴重な睡眠時間との厳しいトレードオフの中、深夜アニメを視聴するエリート社会人の一般的かつ合理的な方法論として確立されているところである。


 こうした選抜法の結果僕が選択した今期アニメ3作のうち1作が『ゆるゆり』だったわけだが、あにはからんや、当初の世評がちっともよろしくない。


 永年のこの萌え業界の観察者として、このジャンルにおけるマスにヒットする作品は大体予想がつき、大きく外れることはないだけに、当初の低調ぶりを不思議に感じてもいたのだが、どうやらここに来てようやくブレイクの兆しが見えてきたようだ。


 ニコニコ生放送におけるゆるゆり生放送への来場者とコメント数は、以下の通りとされており、『まどか☆マギカ』の実績値と比較すると、その伸び率と現時点での絶対数との双方の点で、まどか☆マギカを上回っていることが見て取れる。


ゆるゆり
 第1話 来場者数:18,560 / コメント数:27,283
 第2話 来場者数:16,075 / コメント数:36,794
 第3話 来場者数:14,980 / コメント数:47,418
 第4話 来場者数:19,709 / コメント数:73,049
 第5話 来場者数:33,383 / コメント数:118,015
 第6話 来場者数:40,622 / コメント数:123,704


まどか☆マギカ
 第1話 来場者数:23,888 / コメント数:32,423
 第2話 来場者数:19,153 / コメント数:20,507
 第3話 来場者数:24,897 / コメント数:35,843
 第4話 来場者数:24,424 / コメント数:36,883
 第5話 来場者数:26,261 / コメント数:36,342
 第6話 来場者数:25,962 / コメント数:41,635

ゆるゆりが“来る”と感じられる理由



 ゆるゆりが“来る”と感じられた理由は、これはもうこれまでの蓄積による総合判断と言うほかないのだが、敢えてそれを言語化して列記すると、例えば以下が挙げられるだろう。



 『ゆるゆり』は、似たような日常系ジャンルのヒット作である『けいおん』や『らき☆すた』との対比で、その特徴を語られてもよい。すると、上記のポイントは、『けいおん』や『らき☆すた』が等しく備えていた特徴でもあることに気づくだろう。


 『ゆるゆり』がこれらの要素をどのように満たしているかの指摘は、視聴している人には明らかであり、視聴していない人に説明するのは相当程度の文字数を要する結果、誰にとってもメリットがない記述になるので割愛するが、結論のみ言うと、『ゆるゆり』は、この手の作品としての王道を行っているということが、ここで指摘したいポイントである。


 なお、『けいおん』や『らき☆すた』を踏まえて指摘しておくべき個別の論点に若干言及すると、王道というべき作品は、主要キャラクターに売れ筋声優を起用して人気を取りに行く、というありがちな施策を講じない。むしろこれらの作品を出世作として声優を送り出す機能を果たす、という作品が本来あるべき姿を保っている。
 『ゆるゆり』についても、人気声優に乗っからない作品自体の強靭さを備えており、この点は評価できる点として指摘しておきたい。


追記1.あかり役の三上枝織のインタビュー記事はこちら
追記2.京子役の大坪由佳のインタビュー記事はこちら


 また、この手の作品のヒット作は必ずしも京都アニメーションからでなければ出てこないというわけではないことも指摘しておきたい。今期、京アニは『日常』を展開しており、僕も当初の視聴対象に入れていたが、こちらは既に絞り込みで切ってしまった。一般の市場はともかく、周囲で多額の金銭が動く萌え市場においては、『ゆるゆり』のほうが高評価を得ていく作品としてのポテンシャルは高いのではないかと見ている。この点は、後述するマーケティング戦略によっても左右されがちなため、検証は容易ではないが、今後の同人誌市場や秋葉原のグッズ市場、pixivでの画像アップの状況や原作者の人気の上昇度などの諸動向を注視していきたい。


 追記(9/2/2011)
 ゆるゆりを用いた販促にローソンが乗ってきた。ローソンによる販促は「けいおん!」「まどか☆マギカ」をはじめ、この手のコンテンツがクリティカルマスを超えるユーザーからの支持を受けたものとなったかどうかの強力な指標である。現時点ではHMVと組んで限定CDを発売するというのにとどまっており、リスクをとって単独で商品開発というところまでは行っていない。ここからどこまでゆるゆり人気を伸ばせるか、残りの回の脚本と制作委員会のマーケティング担当の会社の手腕が問われる。

今後の展開



 毎度の事で恐縮だが、重要なことであるので繰り返すと、良い商業コンテンツとは、これによって最大限の収益がライツホルダーにもたらされるコンテンツを言い、最低限として投下資本をきちんと回収でき、さらにどこまでのアップサイドを獲得したかで評価されるべきものである。


 前述のとおり、『ゆるゆり』は、コンテンツそのものとしては、他の日常系の作品に負けず劣らずの「良い作品」である。


 残る問題は、このコンテンツを用いてどこまでの収益拡大が図れるか、すなわち、キャラクターを含むコンテンツ・世界観のマルチユースによる収益拡大戦略の巧拙である。


 当初からヒットした場合を想定してアニメの脚本に収益化の芽を埋め込めているか、ヒットの仕掛けは施されているか、ヒットの芽を捉えてタイミングよく関連商品を展開できる態勢がとられているか、といった点が重要である。


 実務的には、制作委員会の窓口権を誰がコントロールしているか、制作委員会の組合員(出資者)の利害をきちんとまとめきれるような実力のある業者が窓口権者となっているか、といった点が重要だろう。


 残念ながら部外者からはこういった情報は見えてこないため、『ゆるゆり』が、真の意味で「良い商業コンテンツ」たりうるかは、現時点で予測困難というほかない。
(注)アニメの制作委員会である「七森中ごらく部」の組合員(出資者)は非開示のようだが、見る限りポニーキャニオンが入っており一迅社自身は入っていないように見える。


 コンテンツそのもののポテンシャルは高い本作品であるからこそ、ブレイクの兆しが見えている今、コンテンツホルダーによる適切な収益化策の施行が強く期待される。



ラノベ上がりの今期アニメ2作



 仕事に関連することを書くのは差し支えるので、仕事関連で読んだ書籍や新たに勉強した内容以外のことで雑感を記すとすれば、最近チェックしているアニメ、コミック、小説についてだろう。

 アニメの話題が一番ブログの趣旨に合致しているので、これについて書こう。

チェック中のラノベのアニメ化



 今期は、チェックしていたライトノベルが2本アニメ化した。ノベルゲームと同様、ライトノベルも、限られた余暇から読書時間を捻出しなければならないため、内容がない又は薄い作品を回避し、読むに耐えるレベルのタイトルに絞って読んでいる。現在チェックしているのは7作品なので、その内の2つがアニメ化というのは良い確率だ。


 ちなみに、残り5つのうち3つは既にアニメ化を果たしているので、チェックしている作品のうちアニメ化していないものは2つである。そのうち1つはアニメ化が決まったらしいので、アニメ化未定なのは1作品のみ。これも、作品性とエンタテインメント性は高いので、もう少し原作が進めばアニメ化しておかしくない。


 アニメ化した作品は、原作を読んで内容を知っているにもかかわらず、アニメも気になるのが性だ。一つには、好きな作品をアニメで再度楽しみたいというのもあるが、1コンテンツのマルチユース、他メディア展開の施策として各企画担当者が出してきた回答(アウトプット)を楽しんでいるという面が強い。


 コンテンツ事業の投下資本回収と収益性向上の巧拙は、1つのコンテンツをどれだけ使い倒してユーザーからカネを搾り取れるか、にかかっている。ユーザーが事業者に踊らされるという無様な様相を晒さないためにも、事業者サイドのソロバン勘定を冷静に観察し、実際のインプリメンテーションの巧拙を高みから見物するくらいの気持ちを持って作品に当たるのが、ユーザーとしてのあるべき姿であろう。

2作品の残念なアニメ版



 アニメ化したライトノベルは、電撃文庫レーベルから出版されている蒼山サグ作・てぃんくるイラストの『ロウきゅーぶ!』と、同じく電撃文庫から杉井光作・岸田メルイラストの『神様のメモ帳』である。






 ちなみに、R15も1巻は面白く、途中までフォローしていたが、その後の失速が目に余り、フォローを中止した。これも今期アニメ化したようだが、鳴かず飛ばずのようだ。


 ロウきゅーぶ!神様のメモ帳、それぞれまだ4回、5回といったところなので今後の展開によって変更の可能性はあるものの、現時点での感想を言うと、2作品ともアニメ化は残念な結果に終わっている。


 それぞれの残念さには違いがあるが、共通したコンテンツ業界の弱点が垣間見えるように思われるので、これにつき指摘したい。

ロウきゅーぶ!



 てぃんくるのキャラデザのままバスケットボールをプレイするという動画は、およそありえないことである。もっと言えば、ロウきゅーぶ!の作品内容にてぃんくるの絵は合わない。


 おそらく、電撃小説大賞の銀賞受賞作を確実にマネタイズするため、絵だけでも一定の購買者が見込める人気絵師てぃんくるを担ぎだしたというのがアスキー・メディアワークスの企画者サイドの実態だろう。


 実際、それもあって販売にはずみがついたんだろうが、やはりアニメ化にあたってはこの不自然感を糊塗することはできなかったと見える。原作を参照した作画が困難となった結果、アニメのキャラデザは大幅に変更されるに至った。


 原画は元々の選択を誤ったことによるものとして仕方がないとしても、アニメのシナリオがまた残念な内容となっている点はいただけない。ただのロリコンむけ深夜アニメに成り下がっている。原作はもう少しちゃんと伏線張って見せ場を作ってというふうに作られているのだから、この点は尊重した作品であって欲しかった。


 そうすればバスケシーンもあんなおざなりな作画で済まされるはずもなく、きちんとしたバスケ漫画としてもみられるような作品とすることができたはずである。少なくとも原作者はバスケの戦術面などをよく捉えた原作を書いているのだから、それを活かしたアニメ作品として世に送り出していたら、一見萌えアニメのように見えて実は本格派バスケアニメ、という新しいアニメポジションを築けたはずである。


 こういうポジションを築いた作品がその後のグッズ販売やその他の収益化を進めるのに非常に有利なことは、言うまでもない。原作が悪くなかっただけに、アニメ化という収益化のチャンスを生かしきれなかった企画者の怠慢は非常に残念であると言わざるを得ない。



神様のメモ帳



 本作品の原作は、杉井光氏の渋谷系探偵小説である。杉井氏の原作の文学的な完成度は高く、少なくとも一般的なライトノベルの範疇は超えていると言ってよいほどである。また、岸田メル氏のキャラデザも極めて秀逸で、その意味で本作品の原作の完成度は、ライトノベルの分野では極めて高いものがある。


 それだけに、アニメ化にあたっても、その質が維持されれば、極めて高い評価を得る作品になるだろう、そう期待していた。


 実際、作画は原作を損なうことなく、高いレベルの作画を実現しており、この点は評価したい。


 けれども、脚本がいけない。この作品は推理小説であり、推理小説はトリックが重要な見せ場である。トリックを効果的に見せるためには、その前の伏線や小道具などをしっかり視聴者に印象づけなくてはならない。


 しかしながら、この脚本は妙に上っ面だけをなぞったような薄っぺらい脚本で、原作の深みを全く表現できていない。せっかく推理探偵小説をアニメ化するのだから、もっと1エピソードごとに丁寧に描くべきだ。その結果、1クールで3編くらいの作品しか放映できなかったとしてもよいではないか。作品の評判が上がればDVD・グッズ収入も期待でき、2期の芽も出てくる。1コンテンツでより多くの収益を生み出せるではないか。


 また、本件をアニメ化するにあたって、日本コカ・コーラにパートナリングの話を持って行かなかったのだろうか。コカ・コーラマーケティングチームは世界でも有数で、色々な実験的なマーケティングを試みることで有名である。日本ではネタとして取り上げられることの多いドクペだが、米国ではメジャーブランドであり、皆好んで飲んでいる。日本でもコストコで大量販売を行っており、今勢いのあるアニメファン層に訴求すれば、日本での販売にも火がついた可能性がある。しっかりしたシナリオで人気が出れば、当然、タイアップでグッズをおまけに付けたりなどしてドクペの販促もできたはずであり、諸々考えると、どう考えても惜しい。




 コンテンツはなかなか儲からない、とよく言われる。しかしそれは、コンテンツをより良く仕上げ、そこから最大限の収益を産み出そうとする仕掛け側の構想力の不足によるところが大きいのではないか。


 常に収益化の芽を必死に探している他業界の目から見ると、そう感じてならない。



 

2011年7月発売のゲームについて



 以前もどこかで書いたが、ノベルゲームに初めて触れてから20年ほど経つ。


 もちろん、その期間中、常に一定のペースでプレイをしていたわけではなく、国内外の様々な入学試験、卒業試験、資格試験をくぐり抜け、大案件の修羅場を乗り越える中で、ゲームを封印していた時期も少なくない。

 現在も、仕事がますます面白くかつ忙しくなる中、仕事に必要な勉強時間を捻出し、さらにファミリーデューティーを抱えながら、ノベルゲームに割くことができる時間は、週に良いとこ数時間というのが関の山だろう。


 したがって、ハズレゲームをプレイするのは極力回避し、よいシナリオ、よい原画、よい声優の三要素を総合的に勘案して、時間を使うに値するゲームのみをプレイすることを心がけている。


 ハズレゲームを引かないための一般的な手段の一つが、体験版をプレイすることであろう。最近はどこのゲーム会社も、体験版までの部分に相当力を注いでいると聞く。


 しかし、体験版をプレイすることは、僕にとってはハズレを引かない手段として機能しない。


 なぜなら、第一に、近時のボリューミーな体験版をプレイすること自体がすでに、相当の時間のロスになるからだ。体験版をプレイする時間があったら、面白いゲームの本編をプレイしたい。


 第二に、近時は、体験版でユーザを釣って、本編は体験版を超えることなく終わってしまう、という、いわば体験版詐欺商法も跋扈していると聞くからだ。ユーザとの長期的な信頼関係を築くことがブランドの果たす使命である、というブランド論のイロハをも踏まえない暴挙に出る企業が多い業界とはいえ、憂うべきことである。



忙しい人のゲームの選別法



 体験版をプレイせずにどうやってプレイすべきゲームを選ぶのか、といえば、これまでのゲーム経験をフル活用した上で、プレイ済みの人の意見を最大限活用することに尽きる。


 ゲームはシナリオがダメだと他が良くても話にならないので、気に入ったシナリオライターの動向は押さえておく。その上で、原画と声優は各ブランドのサイトで確認すれば、おおよそのプレイすべきゲームの絞り込みはできる。


 ポイントは、この段階で予約などという早まったことはしないことである。


 原画や声優は、誰が担当するかがわかれば、概ね一定のクオリティが保証されるのに対し、シナリオは水ものである。いくらシナリオ構成と文体に定評がある健速氏でも、やっちまう場合があるのである。


 もちろん、早期予約者には予約特典がつき、世の中にはこの予約特典欲しさにシナリオの地雷リスクを果敢に取りに行く猛者がいることは承知している。こうした人達が社会的にも微妙な位置に置かれたこの業界に対する資金供給源として果たしている役割の大きさを思うと、こうした人達の懐の深さ、ディープポケットぶりには業界を挙げて感謝状を贈るに値する貢献であることは認めるにやぶさかではない。ないのではあるが、1ユーザーとして最も効率的にゲームを楽しもうと考えた場合には、予約は決して最適戦略ではない。


 したがって、こうして予めゲームをウォッチしておきつつ予約を回避し、これが発売されてしばらく経ってから、実際にプレイした人のプレイ感想を頼りに購入すべきか否かを判断するのが吉である。


 プレイした人の感想を渉猟する際の留意点は、ただ闇雲にブログを検索してはならないということである。プレイ済みの人たちの感想は、ネタバレを含むことが多く、これを読んでしまったらプレイの楽しみが9割も減ってしまう。


 そうではなく、自分と同じ好みの傾向を持ったブログの書き手で、ネタバラシをコントロールしている人を複数予め見つけておき、その人達の評価に従って最終的な購入の是非を判断するのである。これであれば、相当程度の確率で、地雷シナリオを回避することができる。


 その際、批評空間も十分に参考になることを付言しておきたい。同サイトは、統計学についてひと通りの知識を持った者が管理人となっていると見え、そのゲームが買うに値するかどうかについて、統計的な見地から検討するのに有効である。この場合、特定の数値のみを頼りに判断するのではなく、自分と同様の評価を過去に下しているユーザーのつけた点数や感想につき重み付けをしながら、複合的に読み解くことを忘れてはならない。



2011年7月発売の作品



 そうした見地から、2011年7月に発売された作品の中で、プレイするに値すると判断した作品は、以下の2作品である。
1.株式会社ウィルプラスがMephistoブランドで発売する『天使の羽根を踏まないでっ



2.フェイバリット社の『いろとりどりのセカイ
いろとりどりのセカイ 応援中!!


 1.『天使の羽根を踏まないでっ』についてはシナリオライター朱門優氏への信頼によるところが大きい。同氏は、シナリオで色々なことを考えすぎてしまい、徒に複雑なシナリオとなってしまう恨みがあるが、それが逆に一定のファン層を獲得する要因ともなっているシナリオライターである。ひたすら独特かつ複雑怪奇な楽曲を世に送り出し続けるマイナーミュージシャンが一定のファン層に支えられて存在しているが、あの趣に近い。『いつか、届く、あの空に。』で衝撃を受け、次の『きっと、澄みわたる朝色よりも』でがっかりさせられた同氏のシナリオだが、信頼できるサイトの評価を見ると、今回は大丈夫そうに見える。


 さらに、音楽を手がけているのが、Tynwald Musicレーベルの樋口秀樹氏である点も見逃せない。同氏の楽曲はパレットの諸作品を含め、名曲が多く、WHITELIPSの少し外れ気味だが透明な歌声とともに、これまで贔屓にしてきた。『きっと、澄みわたる朝色よりも』では正直振るわなかったが、こちらも今回は大丈夫だろうと判断している。


 2.『いろとりどりのセカイ』については、まず前作『星空のメモリア』に引き続き、まいたもとい杏子御津を起用しているのが大きい。この声優は、ロロナ的な元気お馬鹿キャラとサーニャ的な不思議静かキャラの2つを主に演じ分けるが、管理人が好むのは後者である。星メモのメアは「バカバカ」セリフで正直うざいところもあったが、今回は妹キャラだしきっと大丈夫だろうと判断した。


 シナリオとしては、正直星メモは許容範囲ぎりぎりの線だった。今回も、ルートによって相当ばらつきもあるようだが、星メモレベルは確保しているように見受けられる。


 原画は同じ司田カズヒロ氏であるが、この人は二種類の絵を書く人との印象を持っている。個人的には星メモのこさめや明日歩のようなクセのない絵が好みなのだが、今回は塗りを含め、もう一種類の方の絵になっているようだ。なお、今回の作品は原画家が複数になっていることが星メモの絵柄との相違の原因と見る向きもあるが、司田氏の元々の絵柄や同氏が当社で占める地位に照らせば、複数原画家となったことが今回の絵柄の変更の直接的な原因ではないと見ている。


 以上の分析のもと、さていずれをプレイすべきか、それが問題である。



穢翼のユースティア〜葉月社の覚醒?〜

『穢翼のユースティア』は2011年4月28日発売予定です。




 慶應大卒業生を中心に設立された東中野のゲーム会社、株式会社葉月(「当社」)がオーガストブランドで発売する『穢翼のユースティア』(2011年5月27日発売)をプレイした。


 このブランドでは、2005年に発売された『夜明け前より瑠璃色な』をプレイしたところ存外に面白く、その前作『月は東に日は西に』を購入しプレイしたところ世評に反して全く面白くなくギブ・アップした、という個人的な来歴を持つ。



 なお、その後に発売された『FORTUNE ARTERIAL』はゲームをスルーし、アニメのみ見た。アニメを見たのは、言うまでもなく、もはや伝説となった『夜明け前より瑠璃色な』のキャベツアニメの苦難を経て、当社がゲームのアニメ化についていかに学んだかを確認するためである。


 当社の経理データは公表されておらず不明だが、世評や秋葉原コミックマーケットその他のイベントにおける露出規模等から考えて、オーガストブランドは、今やこのノベルゲーム業界における雄としての地位を確立したものと見て良いように思われる。



 こうしたバックグラウンドを持つ当社の最新作であるため、発売前からのマーケティングは相当の費用をかけて周到に行われていたことは承知していたが、余暇を使用してプレイするに値するほどの価値がある作品かどうかは、慎重に見極めてから決定すると決めていた。



 そもそも、マーケティングばかり派手にやって予約で粗方の投資回収を確保し、プレイしてみるとたいして中身のないシナリオというゲームが蔓延する世界なので、事前のマーケティングはあてにしない、むしろあまり派手なマーケティングのゲームは眉にツバをつけてかかるくらいがちょうどよいとの考えによる。



穢翼のユースティア』はここがすごい!



 さて、この『穢翼のユースティア』であるが、投資回収とアップサイドの実現というコンテンツビジネスの基本戦略から見ると、当社の事業モデルの特性をしっかりと踏まえ、そこから逆算して作り込んだのではないかと感じさせるものがあるので、それをここに指摘しておきたい。


 もちろん、当社のスタッフがそのように考えたのかどうかは知る由もないが、少なくとも、そのくらい出来が良い、当社の事業モデルを前提とした場合の一つの到達点として位置づけて良い作品ではないかと考えられるのである。




 このサイトの管理人は、ノベルゲームについて、


1.シナリオは、ゲーム会社が限られた時間とリソース(これにはシナリオライターや監修者の力量が含まれる。)の中で作るものであり、ゲーム会社のこれらのリソースや与えられた時間はその会社の所与の条件である。したがって、これを批評しても詮ないし、生産的ではない。
むしろ、限られたリソースの配分の仕方や、配分がゲーム会社がもともと狙っていたユーザエクスペリエンスや事業展開につながっているかどうかを検討するのが生産的である。


2.ゲーム会社は、コンテンツの提供を業とする以上、固定費とゲーム制作費、そしてマーケティング宣伝広告費を、コンテンツの提供を通じてどのように回収するかが重要である。すなわち、コンテンツのライフサイクル全体を見据えて、作品の作り込みをすることが求められる。


と考えている。


 今回は、こうした観点から、本作品について考えてみたい。言うまでもないが、この記事は、本作品をプレイ済みの人(又は本作品をプレイしないことを決めている人)を対象に書かれており、一部にネタをばらす要素があることにご留意いただきたい。



シナリオの構成について



 『穢翼のユースティア』のシナリオ構成は、グランドルートというべきティアのルートを太い幹として、フィオネルート、エリスルート、コレットルート(ラヴィリアルート)、リシアルートが、それぞれこの順に、幹のシナリオから派生した形で展開される。それぞれの派生ルートは、極めて短く、個別ルートを楽しむという仕様になっていない。


 近年の事例では、有限会社AKABEiSOFT2の『G線上の魔王』で採用された構成といえばわかりやすいだろう。


 この構成について、世評では様々に言われているようである。曰く、好きなキャラの個別ルートをもっと深めよ、単なる一本道シナリオである云々。。。


 しかし、こうしたコメントはいずれも的はずれである。


 第一に、幹を作ってその他のルートは枝葉とする方法は、限られたリソースの中シナリオ全体の質を高めるために極めて有益である。すべてのルートについて、それぞれ個別のストーリーを展開させると、ストーリーにむらがでてくるし、全体を矛盾のないシナリオとすることが難しい。


 そうした点をカバーするように作品を作ろうとすると、どうしてもリソースが分散し、その結果、作品としての質が落ちてしまう。


 それを回避するためには、枝葉シナリオは思い切って剪定し、あっさりと作り込むのが正解である。


 なお、シナリオ陣としては、それぞれのシナリオをふくらませてなにか作ることはできたはずだ。現に、Appendixとしてサブシナリオが存在し、これを適当につなげればもっと尺を稼ぐことは簡単だ。


 それをしなかったのは、そのようにすることで作品がだれること、矛盾の調整のためにメインシナリオに細かい改変を加えなければならない事態を回避すること、に理由を求めることができるだろう。


 なお、このような構成を取ることによる、個別ルートの薄さという批判に対しては、まさに豊富なAppendixがこれに応えている。


 個別ルートでヒロインとイチャイチャしたいユーザはAppendixでも見てろ、といわんばかりのこの割り切り、極力広いユーザ層を掴むことと効率的な作品制作を両立させる、立派な企業姿勢だと思う。



 第二に、骨太の幹シナリオを作っておくことが、今後のアニメ、コミック等の他メディア展開を容易にする。


 なんのことはない学園モノであれば、たとえば『アマガミ』のように、マルチエンディングという構成をとっても一応アニメシナリオとして形にはなるだろう。また、薄いシナリオなら『ヨスガノソラ』のようなことも不可能ではない。


 しかし、しっかりとしたアニメを作り、これをソフトウェアで回収するとなれば、やはりしっかりしたシナリオがあったほうが断然やりやすい。


 ちなみに、アニメは、『FORTUNE ARTERIAL』では製作委員会方式を採用しており、その出資者として当社は名を連ねていないので、当社はシナリオを提供し、DVD等からのアップサイドはあくまで版権収入のみという仕切りだったと考えられる。そのような関与形態であったとしても、シナリオの出来・不出来、そして多メディア化のしやすさは、やはりシナリオの構成がどうなっているかによってくることにはかわりない以上、原作者としての当社は、ゲーム段階で、多メディア化しやすいシナリオとしておくことが最適戦略なのだ。




事業展開について



 本作品の投資回収は、基本的にはこれまでと同様、通常版販売、全年齢版(暴力シーンがあるためR指定はつくだろうが)販売をタイミングよく仕掛けつつ、アニメ化、コミカライズ又はノベライズによる版権収入、イベントでの効率販売によってはかっていくのだろう。


 ただ、ここまでよくできたシナリオである。もう一段の収益化が図られてもおかしくない。


 本作品の今後の展開として、『FORTUNE ARTERIAL』で見られなかったどのような展開があるか、その行方をウォッチすることも、本作品の楽しみ方の一つだろう。




シナリオへの短感



 

本作品で最も秀逸だったのは、間違いなく牢獄の武装蜂起シーンである。このシーンが物語全体の中で極めて自然に、説得性を持って織り込まれていることに、シナリオライターの実力を感じた。



 ティアの救出に至るまでのカイムの心の動きについては、ずいぶん批判があるようだ。


 ここは結論(世界を敵に回してもティアを助ける)が見えている中で、むしろ周囲の人間(ジーク、コレット、リシア、フィオネ、ルキウス、そしておそらくシスティナやガオさえも)が、ノーヴァス・アイテルがまさに落ちようとしている今、「○○のため」などといった安っぽい大義によって自分の行動を正当化することを放棄して、自らのレゾン・デートル(作品中の言葉では「生まれてきた意味」)をかけてむき出しの自分のまま決戦を挑みあう混沌をこそ、シナリオライターは描きたかったのだと解釈したい。


 そうしてはじめて、表面的にはティアの心からの希望に反したものであったカイムの行動の真の意味が僕らに伝わるだろうし、これに対するティアの行動が、僕らの心のなかに温かい何かとなって、僕らの生活を少しばかり豊かにしてくれると思うからだ。

アルテミスブルー 桂馬の物語



(注)アルテミスブルーの感想を連載しています。感想のスタンスについては「アルテミスブルー感想その1」を、「ハルの物語その1」はこちらを、「ハルの物語その2」はこちらをそれぞれご参照ください。


 エドワーズ基地篇は、サラ・ラヴェルと桂馬の関係を読者に提示し、桂馬が過去に負った傷の正体を明らかにする。


ダラス200万市民を巻き添えにした航空機事故のパイロットである父親を持つ桂馬にとって、アルテミスの女神に挑むこと、空を飛ぶことだけが自分が存在を許される所以であると信じて疑わなかった。


俺は―俺たちは―人類は、
訊ねなければならない。
この大空の支配者、アルテミスに訊ねなければならない。
なぜ人類にこんな仕打ちをしたのか―を。
なぜ2000万もの人間が
死ななければならなかったのか―その理由を。
人類は―俺たちは―俺は、
その答えを天空の女神アルテミスから
受けなければならないのだ。
そのためのイカロス。
そのために俺は今ここにいるのだ。


自己の存在理由、それはなぜ人類がこんなふざけた空の下に押し込められなければならないのか、これを問うことだけにあると、桂馬自身信じて疑わなかった。そんな自分でも、人を愛することができる、人に必要とされることができる、人を必要とすることができる、それを教えてくれたのがサラだった。


そんなサラから、最愛の兄であり桂馬のパートナーでもあるダニエルを守って欲しいと懇願され、その約束を守ることができなかった桂馬の無力感は、相当のものだったはずだ。しかも、そうしたどん底から桂馬を唯一救うことができたのは、心から愛するサラからの赦しのみだった。しかし、サラは桂馬に赦しを与えることなく故郷のレンスターに帰ってしまう。堅く閉ざされた心を開かせてくれたサラからこうした仕打ちを受けた桂馬の絶望、心の傷は想像するに余りある。


そして桂馬を心から愛する亜希子が親友であるサラの仕打ちによって受けた傷もまた、桂馬のうけた傷と同一のものであったはずである。


桂馬がハルに背中を向けて言った、「…人間は、自分を必要としてくれている人のために生きるべきだ。…人に必要とされていながら…人に期待されていながら…それに応えられなかった人間は惨めなものだ…」という、ハルを建夫のもとに送り出す言葉は、こんな過去を背負った桂馬の言葉だからこそ、読者の心に突き刺さる。


エドワーズ基地篇、さらに言えば桂馬をめぐるサブテーマをファンディスクにもってこられなかった理由、そしてハルのサン・アントニオ行きの話の前に持ってこなければならなかった理由は、ここにある。


桂馬が、本当は江戸湾ズに残りたいと言って泣く娘・アリソンに語るこの言葉も、桂馬の深い自責の念に裏打ちされた言葉として、我々の胸を打つ。


桂馬  「いいかアリソン。
     人は自分が大切と思う誰かのために生きるべきだ。
     …自分のために生きるなんていうのは、
     誰からも必要とされていない人間の負け惜しみだ。」


ではサラはそんなに薄情で悪いな女だったのか。亜希子が罵倒するように、桂馬を裏切って平気でいられるような、そんなつまらない女だったのか。


答えはノーである。


第一、サラがそんなつまらない女であれば、真の男である桂馬をしてI Need Youとまで言わしめるに至るはずがない。サラは、最愛の兄の死に直面して、桂馬との愛よりも兄に対する愛情を優先したのだ。最愛の兄のパートナーである桂馬との愛を平然と貫けるほど、桂馬に赦しを与えられるほどサラは大人ではなかったというだけのことだ。


これは建夫が宇宙から地球を臨んで自らの本心を知り、ハルを諦めたのと似ている。サラにとって何より大事なのは兄であるダニエル・ラヴェルだった、ということに、事故によって初めて気がついてしまったのだ。


だからこそサラは、ダニエルに代わって彼の思いを遂げるべく、ダイダロス計画に邁進する。これは、ダイダロス01が高度100kmの壁を突破したときのサラの独白に端的に現れている。


サラ  「やった。
     やったわ、ダニエル。
     …わたしはついに、再び人間を宇宙に送り込んだ。
     …ついにわたしは宇宙に辿り着いたわ。
     …あなたが目指して、
     今一歩のところで手の届かなかった場所に、
     わたしはついに辿り着いた…
     ダニエル…兄さん…
     見ていてくれた?
     …わたしはついに宇宙に辿り着いたのよ。」


こうしてみると、サラの兄・ダニエルへの切ないまでに純粋な愛情が我々読者の胸を強く打つ。サラもまた、自分が一番大切なもののために自分の身の全てを捧げる、その意味では亜希子がもつ気高さと異ならない強い精神の持ち主なのだ。


ダイダロス01による高度100kmの壁の突破は、かつて同じ目標に向かって邁進していたイカロス計画参加者の面々に複雑な思いを抱かせたことは想像に難くない。しかもそのダイダロス01には、自分よりも10以上も若い、自分たちの大切な仲間であるハルの婚約者が搭乗しているとなるとなおさらである。


こうした中、イカロス計画の中止後リドレーが買い取って秘密の作業場に安置されているイカロス13の前で、桂馬とリドレーとの間で交わされるやりとりは、かつて桂馬が失意のハルにかけた言葉とあいまって、読者の心に強く響く。


桂馬  「俺も、そしてコイツも、もう時代遅れさ。
     …人類初のスペースエレベータが完成し、
     星野が宇宙に到達した今、時代は俺とコイツを完全に追い越していった。」


リドレー「そうかもしれないな。
     ―だが、君もコイツも消滅したわけじゃない。
     腐ったわけでも、錆びついたわけでも、まして死んだわけでもない。
     事実として、君とイカロスはここに存在している。
     その手には力がこもる。その足には力がはいる。
     そしてその心臓には熱い血が流れている。」


リドレー「名誉も賞賛も、まして時代の流れなんて関係ない。
     ただそこに命を懸けるに値する『何か』があるから、
     挑み、立ち向かうんだ。
     それが『真の兄弟』、『真のパイロット達』だ。」


リドレー「こいつはあの日以来ずっと、
     再び『アルテミス・ブルー』に挑戦する日を待ち続けている。
     再び女神と一騎打ちを演じる機会を待ち続けている。


リドレー「僕はあの日以来ずっとコイツの整備と改良を続けてきた。
     コイツはいつでも飛べる。
     今すぐにでも飛べる。
     音速を遥かに超える速度で、90度の垂直上昇で、
     遙か宇宙を目指せる。」


リドレー「僕はまだ白旗を揚げたわけじゃない。
     一度はダウンを奪われたけど、
     まだノックアウトされたわけじゃない。
     僕の挑戦はまだ続いている。
     たとえ時代が僕を追い越して行こうと、
     そんなことは関係ない。
     そこに飛行機が飛べない「ふざけた空」がある限り、
     僕の挑戦は終わらない。」


リドレー「…桂馬、背中に十字架を背負っているのは、君だけじゃないんだぜ。」


桂馬  「…勝負はまだこれから、か。」


リドレー「ああ、そのとおりだ。」


亜希子からの厳しくも真摯な叱咤と、ダイダロス01の宇宙到達、そしてリドレーの言葉がきっかけになり、桂馬は再びアルテミスの女神と一騎打ちする覚悟を決める。


30%のリスクを乗り越えぐんぐんと上昇を続けるイカロス。己の全てを賭けて、人類に対する不可解な仕打ちをしたアルテミスの女神にその理由を問う戦いを挑む桂馬。


やがて彼は100kmの壁を超えて宇宙に到達する。そしてその理不尽な仕打ちへの赦しを与えるとともに、アルテミスの女神からの赦しを請う。ここに桂馬の挑戦が終わり、自分を本当に必要としてくれ続けていた亜希子のもとに還っていく。


ハルのメインストーリーが少女が大人の女性になる過程の成長譚を通じて、女はいかに生きるべきかを示すものであるとすると、桂馬のサブストーリーは、挫折し傷ついた大人の男の復活譚を通じて、男はいかに生きるべきかを示すものであると言ってよい。


それは、英国の不世出の文学者、サミュエル・ジョンソンが喝破した通り、実りある人生をおくるために、我々がまず学ばなければならない事柄だ。


そしてハルと桂馬がストーリーが提示する「人はいかに生きるか」の問いに対する回答は、きれいにぴたりと重なり合う。


「自分があるべき居場所で、自分が一番大切にするもののために、熱い心を持って、常に一瞬一瞬を全力で生きる。それこそ格好いい生き方であり、人生の浪漫に他ならない。」


映画と同様、ノベルゲームも心の潤いをもたらしうるものだということを、シナリオライターの井上啓二氏は本作を通じて示すことに成功したと言える。

アルテミスブルー ハルの物語 その2



(注)アルテミスブルーの感想を連載しています。感想のスタンスについては「アルテミスブルー感想その1」を、「ハルの物語その1」はこちらをご参照ください。


 そんな父親との和解を果たしたハルに、新たに襲い掛かるのが「操縦士型閉所恐怖症」である。大変化後、これに罹病したパイロットの多くは二度と空を飛ぶことができず陸に上がることになるという、パイロットにとっては文字通り難病である。持ち前のガッツと前向きな明るさでこれを乗り越えようとするハルをあざ笑うかのように、離陸のたびに訪れる発作。


ハルは、飛べなくなってしまったという事実よりも、これによって自分が江戸湾ズにいられなくなってしまう、江戸湾ズの住人にとって必要とされなくなってしまうという事実におびえる自分に気づき、自分にとって江戸湾ズがなくてはならない場所となっていることを改めて感じるのだった。


休暇をもらって実家に戻り、英気を養うも、夜ごとに見る悪夢。ハルは自分がアルテミスの女神に嫌われてしまったのだと悟る。そんなハルの元に駆けつけた桂馬の言葉がまた印象的だ。


桂馬  「好きか嫌いかじゃない。」
ハル  「えっ?」
桂馬  「あの空と俺たちの間にあるものは、
     好きか嫌いかじゃない。
     勝つか――負けるかだ。」
ハル  「――」
桂馬  「里心がつく前に戻ってこい。
     ――勝負はまだまだこれからだ。」


…勝つか…負けるか…
耳朶に残る桂さんの言葉・・・


そうだ、これは勝負
勝つか負けるかの勝負
わたしと…そしてアルテミスとの勝負…


ハルは拓哉との出来事があった夜、大空にいるアルテミスの女神に向かって叫んだ勝負の宣言を思い出す。勝負はまだまだこれからなのだ。


このシーンは、ハルの成長譚というテーマとの文脈で描かれるシーンではあるが、また桂馬の過去からの訣別というサブテーマとの関係でこのシーンを見ると、非常に興味深い。


ダラス200万市民の命を奪った航空機墜落事故のパイロットである父親と、この事故による非難に耐え切れず自殺した母親を持つ桂馬にとって、アルテミスの女神によって蓋をされた空は、「ふざけた空」であり理不尽の権化のようなものだ。


そんなアルテミスの女神を桂馬が勝負の相手と見ていたこと、自らの存在理由の全てを賭して戦う相手と見ていたことに、我々は気づかされる。


それと同時に、アルテミスとの戦いに敗れて8年の時を経てなお当時の傷を引きずる桂馬が放った「勝負はまだまだこれからだ」との言葉は何を意味したのだろうか。単にハルを勇気付けるだけの言葉であるとは思えない。その言葉は、言葉をかけた桂馬自身が予期しない、自分の内なる言葉であって、自らの言葉により、桂馬自身もまた気づきを得るきっかけとなったのだ、と解したい。


気づきを得て江戸湾ズに帰還するハル。リドレーによる金銭面での支援と桂馬の温かくも厳しい特訓に何度も失神を繰り返しながら再起に向けアルテミスへの勝負を挑みつづけるハルをめぐる環境は、元の江戸湾ズの竜宮城のような姿に戻っていくものと思われたのも束の間。ハルの大切な友人であるマリア・デル・オルモが故国サン・アントニオ共和国に帰国しなければならない事態が訪れる。


病み上がりのハルはマリアへの友情から、執念でマリアの空路によるサン・アントニオ行きをサポートする。マリアとの悲しい別れを経た後に交わされるハルとアリソンのやりとりが、親友マリアを喪失したハルの心の内を表していてとても興味深い。


アリソン 「アリー、江戸湾ズはずっと変わらない場所だと思ってたのに…」
ハル   「…この世界に変わらない場所なんてないのよ。…変わらないように見えても、少しずつ変化していくものなの。
      ……それが生きているってことなの。」
アリソン 「…悲しいね。」
ハル   「……うん。」
アリソン 「……」
ハル   「でも、同時にだからこそ素晴しいのよ。
      …変わっていくからこそ、人はその一瞬一瞬を大切に思えるの。
      その一瞬一瞬を大切に思えるのよ。
      ……一瞬一瞬、瞬間瞬間を大切に生きなければならないの…」
アリソン 「分かるわ、ハル・・・」


ここにハルの成長の痕跡と、その結果得た人生観が垣間見える。この人生観はまた、スコシタイガーの生き様、浪漫というもののありようを示しているものと見える。


そしてそれに深い共感を覚えるアリソンもまた、ハルと同様、江戸湾ズの住人が等しく持つ心意気=人生観を共有しているのだということを端的に示すとともに、ここでの会話は、大きく展開していく今後のハルとアリソンの人生をも暗示する。


ダイダロス計画で人類初の宇宙に到達するクルーであるハルの恋人、星野建夫。ハルは建夫にプロポーズされ、ダイダロス計画の実行地であるサン・アントニオに一緒に来て欲しいと誘われる。建夫のことが好きであるにもかかわらず煮え切らないハルは、とうとうその原因が自身の桂馬に対する愛情にあることを正面から認めざるを得なくなる。しかしそれは同時に、自らの愛が叶わないことを思い知らされる絶望の瞬間でもあった。


桂馬   「…人間は、自分を必要としてくれている人のために生きるべきだ。  
    …人に必要とされていながら…
      人に期待されていながら…
      …それに応えられなかった人間は惨めなものだ…」


ハル   「…桂さん…
      でも―でもわたしには―わたしにも大切な物はあるんです。
      大切な思いはあるんです。」


桂馬   「…空を飛ぶことか?
      …インド人、誰にも必要とされずに1人で飛ぶ空は孤独だぞ…
      …孤独で寒い空だ…」




どんな危険も顧みず、人間の限界を極め、突破しようとする『真の男』。
最新鋭のマシンを駆り、今のこの凶暴で凶悪な空を切り裂く、黒い稲妻。
現代のイカロス。
例えこの空の高みで待つのが死の女神だとしても、呵呵として挑み続ける大馬鹿者ーー勇者。
お金も、名誉も、命も、そして愛さえも、彼らの前では色褪せるーー
凡百の男たちが、妻や恋人や子供たちのことを想っている時に、
彼らは飛ぶ、この大空を。
アルテミスに蓋をされた息苦しい空を切り裂いて、
どこまでも駆け上がる。
誰も見たことのない、
空の頂点に君臨する女神の顔を見るために、
鋼鉄のじゃじゃ馬にのる騎士。
この世界で、彼らだけが女神の顔を拝する権利と資格を持つ、
選ばれた男たち。
戦う男。牙持つ男。
時代の流れと共に多くの男たちが失ってしまった資質を
今なお持ち続ける男たち。


この人は―桂さんは、その最後の1人。
この人のためにわたしが―女ができることは、
ただ見守ることだけ。
この人が再び飛び立ち、
アルテミス・ブルーに打ち勝つその時まで―
ただ見守ることだけ。
そして、その役目はすでにあの人が担っている。
最初からこの人の側に、
わたしの居場所なんてなかった…


こうしてハルは、江戸湾ズを去る決意をする。江戸湾ズに残ってしまうと、また自分が想いを暴走させて何をやらかすか分からなかったことが最大の理由である。その決断をするハルは、もはやかつてのような子どもではない。


ハルの心の中の理想の友達、今日子は、それをこう表現する。


今日子  「辛く苦しいのは、あなたが
      ようやく自分の人生を歩み始めたってことでしょう。
      自分で決断して、自分で責任を負い、
      自分の力で大切な人を守っていく自分の人生を。」
今日子  「あなたは大人になった。
      …あなたはもう自分を含めた、周りの世界が見える。
      …世界の中の自分の立ち位置が分かるようになった。
      …あなたはもう、頭の中に作った空想上の友達に話し掛ける必要はなくなったのよ」


新天地サン・アントニオでのマリアとの再会、新しい土地で、自分を必要としてくれる建夫のために生きることを決意したハルだったが、ダイダロス01の記念すべき地上上空100?の宇宙空間到達の直後に起こったテロ行為で、こうした生き方が間違っていることを確信する。人には居場所があり、その居るべき場所に人は居るべきであると。


建夫   「これで何もかもがはっきりするだろう      …僕という人間が、いったい何者であるか。
      …いったいどこから来て、
      そしてどこへ行こうとしているのか。
      …何を一番に、誰を一番に考えて生きていく男なのか。
      …全てが分かるはずだ。」


建夫もまた、上空100kmの宇宙空間から、自分にとって一番大切なのは宇宙なのだと確信する。そしてそうである以上、ハルを何よりも大事にすることができない以上、自分がハルを、ハルのあるべき居場所から遠ざける資格はないものと悟る。


ここに建夫もまた、江戸湾ズの住人と同じ、浪漫を大切にする人間であることが明らかになる。クールでハンサムで温厚・誠実な、一見、のんべですけべでやさぐれた桂馬と対称をなすかのように見えた建夫もまた、桂馬を始めとする江戸湾ズの住人と同じ人生観の持ち主であったことが鮮やかに示されている。


思えば確かに建夫はパンチョの店で江戸湾ズの面々と溶け込んでおり、江戸湾ズの面々も建夫を男っぷりを手放しで褒めている。どんなに好人物でもつまらない男には見向きもしない江戸湾ズの住人は、建夫という人間の本質を初めからよく分かっていたのだ。


アルテミスブルー感想その4「桂馬の物語」に続く)

アルテミスブルー ハルの物語 その1



(注)アルテミスブルーの感想を連載しています。感想のスタンスについては「アルテミスブルー感想その1」をご参照ください。


人生において、わたしたちがまず学ばなければならないのは、「いかに生きるか」である。人はみな、なんとか長生きしたいと気を使うくせに、どうしたらよく生きられるかとなると、さっぱり努力しない。
――サミュエル・ジョンソン


「アルテミスブルー」は、これをプレイすればすぐ分かるとおり、「ハルの成長譚」をメインテーマとし、「桂馬の過去からの訣別」をサブテーマとする2層構造をとっている。


幼い頃からの夢だったパイロットとなるべく、高校卒業後すぐに渡米し、サンディエゴの航空学校を卒業して久保航空運輸の面接に向かうハルの姿から物語は始まる。


「賄い担当に最適」というあまりうれしくない理由で無事に久保航空運輸にコ・パイロットとして採用されたハルであったが、新人ハルの久保航空への参画が、イカロス計画の挫折から時間が止まっていた桂馬、リドレーと亜希子の3人組の時計の針をふたたび動かす原動力となっていく。


ハルは空想の中に理想の友達を作り出し、これに日がな話しかけるような夢見がち、もっといえば妄想力たくましい少女である。自分が周りの中でどのような立ち位置にあるかをわきまえず、ひたすらパイロットになるという夢を追いかけて生きてきた。アルテミスにより蓋をされた空を飛ぶという、年間事故率20%にのぼる危険極まりない職業に就くということ、それが親を含めた周りの人々をどれだけ心配させるかに十分思いが至らない。
大変化以前の大空を翔る多くの名画を見て空への憧れを膨らませ、その高校生活も男女の付き合いなどから縁遠かったこともうなずける。


そんな猪突猛進型の夢見がちな熱血少女であるハルは、まさに子どもそのものといえる。


そんなハルに大変化以降の時代の航空産業に携わることの現実を最初に見せつけたのが、重い心臓病を患い、移植のために関西まで飛ぶ途中にPDに逢い、ペリカン見学の夢かなわず命を落とした少年・日下部拓哉であった。


彼女は拓哉の死を前に、パイロットとは自分が死ぬかどうかということにとどまらず、生き延びたときも、数え切れない人の死を翼の上に乗せて、なおも飛び続けなければならない宿命にあることを思い知る。と同時に、アルテミスの女神に蓋をされたこの「ふざけた空」に対する怒りが沸々と湧き上がったハルは、女神に対して勝負の宣告をすべく、咆哮するのであった。


アリソンが父親である桂馬をたずねて江戸湾ズに訪れたときのハルもまた、持ち前の子どもぶり、よく言えば思いやりあふれる純真さを遺憾なく発揮する。桂馬が父親でないことが判明したため日本に在留する理由がなくなり、誰にも迷惑をかけないようにと運命に身を委ねるアリソンに対して、自活することができるだけの経済力がないハルがしてあげられることは、拓哉のときと同様、何もない。けれども、そんなハルの純粋さや人を思う温かな心は、裏切られ心に傷を負い、8年前から時計の針が止まったままの桂馬の心を動かした。真に必要とされているときに手を差し伸べる、そんな当たり前なことができなくなってしまっていたことをハルによって気づかされた久保航空の大人たちは、ハルという少女が自分たちのいつ終わるともしれない停滞の時代に終止符を打つ希望の一灯であるかのように感じ始めるのであった。


少女ハルが一人前の大人になるためにまず最初に達成しなければならなかったことは、家族なかんずく父親、浩一郎との自身の進路をめぐる和解であった。これには多分に父親の子離れという要素を伴うものであったが、親の理解を得るための努力が十分だったか、ハルにもまた問われるところがあったはずだ。


ここでハルの力になってくれたのが“スコシタイガー”ことドナルド・クーパーである。このスコシタイガーと浩一郎とのハルをめぐるやりとりは、公務員として手堅く安全な人生をモットーとする小市民・浩一郎と、アルテミスに蓋をされた危険な空を自らの居場所とするハルを含む江戸湾ズの住人の人生観(=いかに生きるか)についての考え方のギャップを鮮やかに示していて興味深い。


ドナルド「格好いい奴は自分から動く人間だ!
     他人から何と言われようと、笑われようと、
     自らの信念に基づいて後悔のない人生を送る奴だ!
     たとえそれが茨の道でもな!
     だからそういう人間の人生には浪漫があるんだ。
     男も女も、格好いい奴の人生には浪漫があるんだ!
     スプリングガールは充分格好いい人生を送っているぜ!」



浩一郎 「わたしの人生は格好悪いですか…
     …そうですよねぇ、ただの公務員ですものねぇ
     …娘は大空を目指すパイロットですものねぇ」



ドナルド「パイロットとか公務員とか、そんなの関係ねぇ!
     もうすでに別の道を歩き出している娘に、
     自分の人生を乗っけようとしているから、
     お前は格好悪いんだ!
     いつまでも娘に依存してんじゃねえ!」


ハルはまだ大人になりきれていない子どもだが、「いかに生きるか」についてドナルドや桂馬、亜希子やリドレーといった江戸湾ズの住人と同じ心意気を持っていることが、スコシタイガーにより明示的に示される。ハルが桂馬の心を動かし、亜希子やリドレーがハルに希望の光を見る理由、そしてハルが知らぬうちに亜希子やリドレー、そして真面目で潔癖な自分と正反対のキャラクターの持ち主と思われた桂馬に惹かれていく理由はここにある。現実はどうあれ夢を追いかける、夢のためならば危険や損得勘定など全く気にしない、そうした「浪漫」をハルは他の江戸湾ズの住人たちと共有しているのである。


ハルが安全確実を何より尊ぶ公務員家庭にあってこうした浪漫を抱くようになった理由は、古今東西の名作映画の影響に他ならない。そして映画をこよなく愛するきっかけとなったのが父、浩一郎の映画好きという趣味にあるというのがまた面白い。


浩一郎も、日々変わり映えのしない公務員生活を送りながら、映画を通じて浪漫を仮想体験していたのだ。そして、「あれは現実ではない、映画の中の出来事なのだ」と、大人らしく自らの立ち位置を受け入れて生きてきた、そんな悲しくもまっとうな大人の姿、それがハルの父・浩一郎が象徴する大人の現実像である。


浩一郎は、ドナルドに一喝された後日、ドナルドはまるで映画の主人公のような人だと嬉しげに評しているが、こうした発言はまさに、浩一郎の浪漫への素直なあこがれを感じさせる。


 (アルテミスブルー感想その3「ハルの物語2」に続く)